痛みの雨、灰の断罪
気がつくと、そこは見たこともないほどに美しい夜空だった。
自分の足が地に着いていないことを確認して、ぼんやりと、ああ自分は死んだのだなあと思った。
本当に死後の世界はあったのだ、そうジェイドに言ったなら、彼は信じてくれただろうか。やはり、ばかばかしい、夢でも見たんじゃないですか、と一蹴されて終わりだろうか。
でも本当に死んでしまったのならもう彼に会うことも出来ないわけだから、こんな夢想こそが、最もばかばかしいのかもしれない。
うっすら皮肉に笑おうとして、やっと自分の感覚が存在していることに気がついた。生きていた頃と寸分も変わらないこの感覚は、一体どういうことなのだろう。
辺りを見渡せば、果てしなく広がる蒼い闇のあちこちに、日光にきらめく漣よりも仄かな光が散らばっている。音のない死後の楽園は、たいそう静かな場所だった。
このうつくしい光景は、しかし悲しくなるほどに孤独だ。他のどんな存在をも拒絶する深淵。光はあまりに遠すぎて、この掌には届かない。
寂しい、寂しい、哀しい、けれど。
自分は途轍もない罪を犯した。この孤独な闇こそが、その罰なのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えたが、どこか他人事のようだった。
意識が薄れていく、この感覚は何だろうか。
「おい」
急激に感覚が呼び戻される。静寂を打ち破る音が、波紋のように広がった。どうも自分の声のようだったが、声を出した記憶がない。
不思議に思って首をかしげると、また、今度はいささか不機嫌そうに、再び同じ声が聞こえた。
「おい、レガート」
驚いて、声のした方に振り向く。ちょうど自分の真後ろ、五メートルほど離れた場所に、彼は立っていた。
赤い長い髪を流した、きつい顔立ちの青年。呆然としながら、思わず、その名を呼んでいた。
「アッシュ…? なんでこんなところに」
「それは俺の台詞だ。何でお前が、よりによって俺の夢にまで出張してきやがるんだ」
「へっ?」
夢? 誰の夢だって? 頭の中で疑問符を飛ばしていると、彼は一際冷たい視線を向けてきた。
「ちょうどいい。貴様には言ってやりたいことがあったんだ」
険のある声に、彼がかなりの苛立ちを、いや、怒りと憤りを抱いていることに気づく。その理由に思い当たる前に、彼が答えを吐き捨てた。
「アクゼリュスを落としたのは、貴様か? そうだとしたら、何故、そんなことをした?!」
レガートは、真っ直ぐに怒りをぶつけるアッシュに気圧された。これが憎まれると言うことか、と、この期に及んでまだ、どこか客観的に考えていた。
「そう、俺がやった。お前達を、アクゼリュスに行かせないために」
「だからって何故、あの場所を落とすことになる! どれだけの人命が喪われたと、」
「およそ一万人。…知ってるさ、俺の住んでた国のことだから」
相手の言葉を遮り、目を逸らさずに答える。同一の存在がぶつけてくる確かな感情に、自分自身も引きずられていくのがわかる。
憤怒に頬を紅潮させたアッシュは、こちらの胸ぐらにつかみかかってきた。噛み付くような叫びが、失くしたはずの頭蓋の中で響く。
「ならば、何故落とした! テメエには自分の国に対する感情はねえのかよ!」
「あるさ! あるに決まってる。あそこだけが、俺の居場所なんだから。だからこそ、落としたんだ」
「だからどうしてそうなる! お前、頭がおかしいんじゃねえのか?!」
「お前なんかに何がわかる! オリジナルだから、自分の名前も居場所も持ってたお前に、自分の命以外の何一つ持たない俺の、一体何がわかるって言うんだ!」
だんだんと、この数年で培った筈の忍耐力と冷静さが失われていく。このままじゃいけない、と頭の隅で何かが警鐘を鳴らすのに、それに構うだけの余裕がなかった。
しばらくの間黙って睨みあう。一回、二回、深呼吸して、出来るだけ淡々と告げた。
「アクゼリュスは預言で崩落することが決まっていた。本当なら、あの場所と心中するのはお前の役割だった。だけど、俺たちにはそれじゃ都合が悪かった。だから俺が落とした。そして、俺が死んだ。いいじゃないか、喜べば。お前は死なないですんだんだ」
返答は固い拳だった。ごつっと鈍い音がして、衝撃によろめく。痛い。死んだはずなのに、頬を貫く痛みを感じるのって何だか不条理だと思った。けれど何とか踏ん張って、アッシュに再び噛み付いた。
「預言に従うのはそんなにいけないことか? 未曾有の繁栄をもたらすとわかっているのに?」
「それが正しいことだとでも、お前は思っているのか?! そこまでの大馬鹿者か、お前は!」
「正しさなんか知るか! 俺は俺と一万人の命と、他の全てを天秤にかけて、あそこを落とした、ただ、それだけだ!」
アッシュは、まるで魔物でも見るような目をした。魔物で上等、何故なら自分は人間ですらない。
「貴様など死んで正解だったな。生きているほうが有害だ」
「はっ、それならもういいだろ! どうせ俺にはもう何も関係ない。第一、お前さえ割り込んでこなきゃ、俺は多分あのまま消えられたんだ」
そう言うと、アッシュは訝しむような顔をした。
「…ちょっと待て、お前、まだ死んでいないのか?」
「知るか。俺は気がついたらここにいて、お前が後からここにきたんだろ」
投げやりに答えると、アッシュはしばらく考え込むような素振りを見せた。そして彼は、おもむろにすらりと剣を引き抜くと、止める間もなく長い髪を切り落とした。
夢の中で髪を切ることに意味があるとは思えない。無風の空間の中で夢らしく都合よく消えた髪を追うように、彼の姿も薄れていく。
同時に、自分自身の意識も、急速に光の届かない闇へと呑まれていった。
次に目を覚ましたとき、やはり目の前にはアッシュがいた。仏頂面の、眉間の皺をさらに深くして、彼は傲岸なまでにしっかりとその場に立っていた。
その髪は、何故か、短いままだった。
「結論から言うと」
彼は挨拶も何もなく、いきなり本題から切り出してきた。
「これはただの夢じゃない。お前は多分、実際には死んでいない」
「…何だって?」
彼の告げようとしていることがよく理解できず、問い返す。アッシュは、彼にしては辛抱強く、経過を丁寧に説明してきた。
昨日、というか正確には今日彼が目を覚ますと、夢の中で切ったはずの髪が、目覚めても何故か短かかったこと。周囲には切ったはずの髪は散らばっておらず、また、周囲の人間も見ていないと断言したこと。
精神と、そして肉体の両方に影響を及ぼす夢。それがただの夢でなど、あるはずがない、と彼は言った。
「んなこと、信じろって言われてもな」
こちらには実感がないから、理解しろと言われても手に余る。肉体がないせいかもしれない。が、アッシュはそれを否定した。
「昨日から観察していてわかったが、お前には少なくとも痛覚が存在するな? そうなら、もし俺の予想が正しければ、お前の肉体はどこかに実在しているはずだ」
「はあ?」
「俺とお前は完全同位体だから、多分肉体的にも、どこかで何かが繋がっている。だからこそ、こんな、普通ならありえないような夢を見るんだ」
そういって、アッシュはしばらく黙り込んだ。どうやらこちらがどの程度理解しているかどうかを見極めようとしているらしかった。
肩をすくめ、溜息をつく。
「死んでまで、こんな悪夢を見るのか。なら俺がここで死ねば、現実の俺も死ぬのか?」
「死ぬのは勝手だが、その前に吐いてもらおう。お前、ヴァンの計画をどの程度まで知っている?」
「全然知らない。聞いてもいないな。聞いたところで、多分向こうも教えてはくれなかっただろうけど。それにヴァンの真意なんか、俺にはどうでもいいことだったし」
アッシュは、この役立たずが、という言葉を顔面全体で表現した。だから、お前の役に立つために生まれてきたわけじゃない、と言ってやろうかとよっぽど思ったが、やめておいた。自分がすっきりするためだけに、その他のあらゆる点で無益なことはしたくない。
「お前の体を見つけないとならんな。どこかに心当たりは無いのか?」
傲慢なアッシュの態度に苛立ちを覚え、顔を背けた。目の前に広がる、昨日と同じ冷たい夜空に、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「全く無い。感覚もだいぶぼやけてるからわからない」
「嘘ついてるんじゃないだろうな?」
「この状況で吐いてどうするんだよ」
もっともらしい反論をすると、アッシュは、まだ疑いの色の残るまなざしをこちらに向けてはいたが、それでも一応納得はしたらしかった。
「つーか俺、本当に死んだんじゃなかったのかよ…これ何かの冗談? もういいよ、俺、このまま終わりた」
「ふざけるなっ!!」
ぼそぼそと呟くと、途端にアッシュの怒号が頭の中でこだました。
「何の責任も取らずに死ぬつもりかこの屑が! それでも俺のレプリカか?!」
彼はどうも、導火線の短いタイプらしい。自分も人のことを言えた義理ではないが、だからと言って何もこんな至近距離で叫ぶ必要はないと思う。
「お前のレプリカになんてなりたくてなったわけじゃねーし、それに第一どうやって責任取るってんだよ。俺が殺したやつの親類縁者全員に殺されでもすりゃいいのか? 物理的に無理だろそんなの」
「なら代わりにこれ以上の被害者が出ないようにヴァンを止めろ!」
どうやらアッシュは心底真面目に言っているようだった。だが、軽々しく頷けるような事柄ではない。
「止めろったって、これ以上世界の歴史を預言から逸らせるつもりか? あいつはまだ今のところ、そこそこ預言通りに動いてる」
「その預言にも載ってないレプリカの癖に口を開けば預言預言と、お前は一体何様のつもりだ?! 俺を誘拐し、預言にないお前という存在を作ったのは一体誰だった? そんなことも忘れたのかこのゴミ屑野郎が!」
レプリカレプリカと連呼され、流石に忍耐力の限界が近づいているのを感じた。もういいかげんにしてくれ、と、うんざりしながら怒鳴り返す。
「黙って聞いてりゃ屑屑と人のことをごみ屑扱いしやがってこのハゲ! じゃあどうしろってんだよ、俺という存在が動くだけでできる歪みで、次は誰が死ぬかもわからないのに! ファブレ家の二の舞を踏ませるつもりか?!」
「何が起こるかは動いてみなきゃわからねえだろが、こんな辛気臭ェ場所で脅えてガタガタと世迷言ばっか抜かしてねえで生きようとしろ! 生きて償え!」
アッシュの、オリジナルルークの、まっすぐな碧の瞳が、心の底を射抜く。怖ろしさすら感じるほどの強さ。彼こそがあのヴァンの弟子の、六神将が一人、鮮血のアッシュなのだと、今更ながらに気がついた。
その鋭利な刃先に触れるだけで、赤い血が噴き出す。まるで彼の姿は、鈍く銀色に輝く両刃の剣だ。
彼こそが、自分のオリジナル。その強さを、しかし、自分は受け継がなかったのだと、痛いほどに思い知らされた。
「こんな場所で勝手に野垂れ死なれてたまるか。俺はお前のオリジナルなんだ! 例えお前自身がどう思っていようが、その罪から逃げることだけは、この俺が許さない。例えお前の体が朽ちていようとも」
彼はそこで一度言葉を切った。こちらの反応を窺っているのがわかる。しかし自分にはもう、浴びせられる言葉を受け止めることしか出来なくなっていた。
いたぶるがごとくに、そのことをしっかりと確認してから、返しの刃のように鋭く、アッシュは告げた。
「呼び戻してやる、冥府の底から。お前の罪を償わせてやる」
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2007/5/6 アッシュとルーク