ひ と で な し の 恋

道化師二人、空の下



 呼び戻してやる宣言の後、アッシュはぱったりと現れなくなった。
 ルークはというと、前回のように意識を失うでもなく、ただ夜の中をふよふよと漂っているだけだ。
 何度も何度もオリジナルの言葉を反芻し、理解しようと努力し、そして諦める。
 自分の存在は預言の外にある。自分が動けば動くほど、預言に生じた歪みは大きくなる。
 ならば、その歪みのせいで破滅から逃れたアッシュもまた、預言の歪みになるのだろうか。
 ヴァン・グランツの、預言に対する執着心は異常だ。再会してから言葉を交わした回数は片手の指にも満たないが、それでもそこにある深い感情を肌で感じた。
 彼は預言を引っくり返したいのだといった。そのために、預言の外側にいるレプリカの存在が必要だった、と。
 けれどルークは予言できる。レプリカを予言できなかった、預言よりも確実に。
 この先ヴァンがどんなにあがいても、彼が変えたがっている何らかの運命からはきっと逃れられない。
 何故なら希代の天才ジェイド・カーティスが、彼の前に立ちふさがるからだ。
 ルーク――レガートが死んだから、とかそういう理由ではない。ヴァン・グランツがフォミクリーを利用したことが全ての原因なのだ。それを知ったジェイドの激怒は、想像に余りある。
 深く溜息をついた。ルークは最悪の事実に気付いてしまった。
 もしルークがアッシュの言ったとおりに、うっかり本当に生き残っていたとして、無事現世に生還を果たしても、ジェイドに遭遇してしまえば、必ず酷い目に遭わされることだろう。雪山に置き去りにされる程度では絶対にすまない。冗談抜きで殺されるかもしれない。
 多分裁判もなしだ。下手をするとルークが帰ってきたこと自体、無かったことにするかもしれない。お誂え向きなことに、レプリカであるルークは死んでも遺体が残らないのだった。
「…マジで死にてえ」
 ぽつん、と呟いた言葉は、反響すらしない。この夜に果てはあるのだろうか。
(大体ここは何なんだ。こんなところでぼさっと過ごしていたらいつの間にか発狂しそうだ)
 誰かいないんだろうか、と小さな希望を持ってみる。いても、アッシュぐらいなものかもしれないが、それでもいないよりましだった。
「誰かー」
 こんな訳のわからないところで自分は一体何を探しているんだろう、と、彼は十回くらい叫んでからそう思った。
(一人で死ねればよかった。ジェイドが生き残ればそれでよかった。復讐も何もかも、あいつさえ生き残っていればきっと叶う)
「ルーク」
 ルークが深い思考の海にもぐりこむ直前、突然声が聞こえた。頭の中に言葉が直接響く、この感じにルークは覚えがあった。
 次の瞬間すぐ目の前に、もわっとした不定形の、よくわからない色彩をした、辛うじて人型のものが唐突に現れて、ルークはぎょっとした。
 だが、ルークはそれを知っていた。体内に、これに近いものを飼っていたこともあった。
「ローレライ」
 第七音素の意識を持った集合体だ。
「時間がない」
 それはいきなりそう言った。ルークは咄嗟に反応を返すことが出来ずに固まる。
「…は?」
「ルーク、お前がシルフを解放したことでできた空洞はじきに埋まる。セフィロトのどこかに転送するから、そこからは一人で生き残れ」
「ちょっと待てローレライ」
 意味がわからない、説明が説明になっていない、そう主張しようとしたルークの言葉を遮るように、それは続けた。
「鍵をお前に託す。アッシュと協力して、私を解放してくれ」
 言いたいことを言うなり、現れたときと同様に、それは唐突に消えた。
「お、おい、ローレライ?! 解放しろってどういうことだよ! ちゃんとした説明くらいしてけ!」
 どんなに怒鳴っても喚いても、何の返答もない。さらに声を張り上げようとして、ルークは息を詰めた。
(なんだ、これ――)
 指の先から固まっていく。肺の筋肉が凍り付いて呼吸が出来ない。そのままくずおれるしかなかったが、固い地面にはぶつからずに、ただ落ちて行くだけだ。
 あまりの苦痛に、ルークの意識は闇に溶けていった。


 身体がだるくて、重い。ひんやりとした、硬質な感触が手に触れている。やけに動かしづらい目蓋をそれでも無理矢理上げると、夜空が広がる。
 またか、とうんざりしかけて、けれどよく見れば違う。夜にしては明るすぎる。
 視界の端で立ち上るのは白い柱。アクゼリュスでも見たこれは、もしかして、パッセージリングではないだろうか。
 ルークは慌てて跳ね起きた。周囲を確認すれば、淡く明滅する古代の遺産が周り一帯を取り囲んでいた。
 どこかのセフィロトに転送する、とか何とか、ローレライが言っていたのをやっと思い出して、ルークは頭を抱えた。
「…嫌がらせか?」
「それはこっちの台詞だよ」
 思いもかけないところからの返答に、ルークは内心驚きながら、腰に下がった剣の柄に手をかけた。
 ルークのすぐ背後に立っていた少年は、深く溜息をついた。驚愕から立ち直るのは彼のほうが先だった。
 何故かシンクからは殺気が全く感じられず、ルークは内心首をひねった。首だけで振り向いて、わざと低い声で問う。
「…何でここにいるんだ」
 シンクは、仮面の下の唇を皮肉げに歪めた。
「それもこっちの台詞。あんた、アクゼリュスで死んだ筈だろ」
 何でまだ生きてんの――言外にそんなニュアンスを感じ取って、自然とルークの表情は渋くなる。
「別に生き残ろうと思って生き残ったんじゃないんだから、俺にだってわかんねえよ」
「へえ、つまり死にぞこないってことか」
 嘲笑するシンクにむっとしても、その通りなのでルークは反論できない。
「お前こそなんでここにいんだよ」
「あんたには関係ない」
 このクソガキ、とルークは胸中で毒づいた。隠す気もないので顔にも出ている。
 だが腹を立ててばかりいるわけにも行かないのも彼にはわかっていた。無駄な戦いが出来るほどには、今は体力がない。今、ここで剣を交えれば、まあ七割がた負けるだろう、と冷静に分析する。
 相手も何故かそれを察しているらしく、戦闘の構えを取る様子もない。かといって、警戒されていないわけでもないが。
「ここは…どこだ?」
「ザオ遺跡の地下だよ」
 えらくあっさりと返答が帰ってきたので、ルークは思わず呆気にとられてしまった。シンクもそんな彼の様子に気付いたのか、からりとした声で続ける。
「今のアンタには戦闘能力がなさそうだからね。死に場所の名前くらい知っときたいだろ?」
 嫌なやつ、とルークは今度は口に出した。
「お前、俺を殺す気か?」
 シンクはしかし、そのルークの言葉を鼻で笑った。
「何で僕がわざわざそんな面倒なことしなきゃなんないのさ。勝手にに野垂れ死んでなよ」
 今のあんたにはわざわざ殺す価値もない、と彼は言った。態度までその通りだった。
「それに、実体も保てないような消えかけのレプリカ、怖いわけがない」
 ひゅ、と、ルークの喉が鳴る。
(今こいつは何と言った?)
 ルークは、嫌な予感を理性で無視して、自分の身体を見下ろした。淡い燐光が、足元から透けて見える。
 自分の両手を胸の前で広げると、掌の輪郭の向こうに足が重なって見えた。
「…何だよ、これ」
 シンクは答えない。ルークはもう一度、何だこれ、と、呆然と呟いた。
 彼はふらふらと引き寄せられるように、パッセージリングの方へと近づいていった。
「ちょっと、あんた何する気?」
 シンクが何か喚いているが、夢と現の間にいるルークには聞こえない。
 まるでそうするのが使命であるかのように、ルークはパッセージリングの正面で両腕を広げた。
 ふわり、と、身体の周囲に風が巻き起こる。第七音素の渦だ、とぼんやりとした彼の脳裏で誰かが囁いた。
 ルークは、身体いっぱいにその風を取り込む。
(こんなにたくさんあるのだ、ちょっとくらい奪ったって構いやしない)
 そして突然身体の中に何か重いものが取り込まれて、ルークは落ちた。遺跡の床の端から、まっすぐに飛び込むように。
 シンクの声は、彼にはもう届かない。


 次に目覚めたときに聞こえたのは水音だった。
 ルークはは浅い水の中にいて、全身を冷たい流れが舐めていくのを感じた。
 あまりの寒さにぎょっとして、慌てて起き上がると、頭のてっぺんからつま先までぐしょぐしょだった。周囲をきょろきょろと見回す。見たこともない洞窟だった。
 とりあえず全身のチェックを終えて、ルークはほっとした。もうどこも透けていなかった。
 ローレライのアフターサービスは完璧だった。彼はアクゼリュスを崩落させる前と全く同じ格好をしていた。神託の盾の黒い法衣に、赤い髪。
 レガートではなく、ルークの姿だ。
(…感傷に浸ってる場合でもない、か)
 とりあえず服の水分を絞れるだけ絞って、張り付く髪もついでに絞って、ルークはざぶざぶと水を蹴って洞窟の出口を目指すことにした。
 何をするにもとりあえず、アッシュを探さなくてはならない。全てはそれからだった。

 腰に佩いた剣は、全身水に浸かっていた割に被害は受けていなかった。相変わらず抜群の切れ味だ、と現れた魔物を次々と切り飛ばしながら思った。
 欲を言えばホーリィボトルが欲しいところだ。まだ身体の間接がうまく動かない。弱い魔物ばかりだからまだいいものの、流石に続くと疲れた。
 ちか、と視界に光が映る。今度こそ、洞窟の出口だろうか。またくらい洞窟の中に逆戻りさせられたら、うんざりしすぎて暴れそうだ。暴れられるものなら。
 光に近づくごとに、希望は大きくなる。今度こそ本当に外に出られそうだった。ほっとして息をつく。だが、その先に小さな人影を見つけて、ルークは息を呑んだ。
「…なんで子供がこんなとこに?」
 その言葉を聞いた瞬間、その子供は、ぷくっと頬を膨らませて腰に手をあて、口を尖らせた。高い位置で結い上げた黒髪のツインテールが揺れる。
「せっかくアッシュの言うとおりに迎えに来てあげたのに、しっつれいなやつー!」
「は?」
「でも時間ないし、ともかく行こ。あとでしっかり取り立てるから」
 そういって即座にくるりときびすを返した少女の背中に、ルークは状況がうまく飲み込めず、情けない声をあげた。
「ちょっ、待てよ! 俺は何が何だかさっぱり…」
「話は歩きながらでも出来るでしょ、今は早くイオン様を取り戻さなきゃ」
「イオン? 導師に何かあったのか?」
 大股に追いつくと、少女はちらりとこちらを見上げた。
「…何にも知らないの?」
 茶色の瞳に、どこか責めるような色があることにルークは気付いた。
「全然。第一俺、さっき目覚めたばっかだし」
「さっき目覚めた?」
 鸚鵡返しに聞いてくる少女に頷く。
「ああ。気付いたら川の中だった」
「だからどことなーく全身湿ってるのか…」
 ちょっと気の毒そうな声が、何故だか痛い。心なしか風も寒いように感じられる。
「それで、今の状況は?」
 単刀直入に尋ねると、少女は表情を固くして答えた。
「イオン様とティアが軟禁されてて、大佐とガイは牢屋の中。ナタリアはバチカルに送られちゃった」
「はあ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまって、少女にじろりと睨まれた。だが信じられない、という気持ちが頭の中を支配している。
「その大佐って、ジェイド・カーティス?」
 少女は大真面目に頷いて、ますます妙な気分になった。
 ジェイドが投獄されるようなことがあるとは、ルークにはとても想像できなかった。立ち回りは上手そうなのに、という気持ちが顔に出ていたのだろう、アニスは付け足した。
「イオン様を盾にされて、罠に嵌っちゃったの。私は間一髪で逃げ出してきて、あとでアッシュから伝言をもらったんだ。ここに、レガートを迎えに来るように、って」
「…ちょっとまて、じゃあアッシュはどうしてるんだ?」
 ルークがそう尋ねると、アニスはにやり、と口角を上げる。
「ナタリアの先回りしてバチカルに行くって。愛だよね〜、愛」
 ルークはぐらり、と眩暈を感じた。何とかそれに耐え、それで? と問う。少女は再び首をかしげる。
「それで、って?」
「俺はどっちを手伝えばいいんだ?」
「どっちって」
 頭がくらくらする。途方もない話に、脳が思考することを拒否しているのかもしれない。
「だから、君と二人っきりでローレライ教団の本部に殴り込みをかけるのか、一人だけでキムラスカの王城に潜入するのか、ってことだよ」
 無謀無理無茶、不可能としか言いようのない作戦だ、と暗に告げると、少女は白い目でルークを見上げる。
「自信ないの?」
 認めるのは非常に癪だったが、ルークはしぶしぶ頷いた。
「目覚めてからこっち、身体がおかしいからな」
 その返答に、ええー、と少女は非難めいた悲鳴を上げる。
「何それっ、有名な大佐の養子ってのは見掛け倒し?」
「だから、普段の俺はもっと強いんだよっ。今はちょっと体調が悪いだけだ」
 叫んでいて、ルークは空しくなった。こんなお粗末な理由は言い訳にもならない。それが事実であるために、なおいっそう救いがたかった。
「…ともかく。何かあてはあるんだろうな」
 少女は頷いた。
「だーいじょうぶ、だと思う、多分。だってアニスちゃんはこれでも、導師守護役だからね〜」
 ルークは目を瞬かせた。
「…フォンマスター、ガーディアン、つったか今」
「そうだよ。っつーか、タルタロスの前で一回会ったじゃん。覚えてないの?」
 じろりと睨まれ、慌てて記憶を探る。もとよりそれほど高くなかった少女の視線の温度が、急速に冷えていく。
「あんたらがイオン様をさらってったとき」
 憮然とした声で少女は付け足した。引っかかるものを感じて、ああ、と頷く。
「…そういえばいたような」
「いたような、じゃなくて、いたの」
 完全に機嫌を損ねて閉まったらしく、少女は、はああ、とこれ見よがしに大きな溜息をつきながら肩をすくめた。
「こーんな美少女を前にしてど忘れってありえない」
「…ってかあの時は明らかに敵だったろ。戦う気なかったけど」
 そういうと、少女はちょっと驚いたような顔をした。
「え?」
「導師をうっかり浚われちゃうような間抜けな導師守護役と違って、俺は俺の任務を遂行してただけだからな」
 それを聞いて、少女は黙り込んだ。様子を訝しんで表情を窺うが、何の感情も読み取ることが出来ない。
 しばらくたってから、彼女は口を開いた。
「…マルクトを裏切って?」
 ぐさり、ときた。ルークの顔が歪むのを、少女の茶色の瞳がじっと見つめていた。
「…そうだよ」
 それでも彼は肯定するしかない。少女は奇妙に感情のない声で続けて尋ねてきた。
「育て親も裏切って?」
「それが一番マシな方法だったからな」
 少女はぴたりと立ち止まった。
「なんでそんなことができるの?」
 その表情を見て、ルークは呆気にとられて、言いかけた言葉を飲み込む。
「…なんで、お前が泣きそうなんだ?」
「そんなことない」
 少女は眉を寄せ、俯いた。先ほどよりもう少し小さな声で、泣きそうなんかじゃない、ともう一度繰り返す。
「嘘付け」
「嘘じゃない」
 ルークは思わず天を仰いだ。泣きたいのはこっちのほうだ、と胸中で呟く。
「育て親の意思よりも、アクゼリュスの人の命よりも、マルクトという国よりも、俺には大事なものがあったんだ」
 ため息に混じらせて、そう吐き出した。これ以上触れていたい話題ではない。
「ダアトはこっちでいいのか?」
 言いながら、少女の横を通り過ぎた。十歩離れたところで振り返ると、少女はどこか茫洋とした目で、ルークをじっと見つめていた。
「おい、行かないのか」
「…行く、けど」
 少女は、きゅ、と拳を握った。少しためらうように目を伏せて、それから俯きがちに、尋ねてくる。
「そこまでして守りたかった大事なものって、なに」
 ルークが黙っていると、少女はやがて、何かを押さえ込むように、そっと胸に手を当てた。
「やっぱりいい」
「親の命」
 二人が口を開いたのは、同時だった。声が重なって、お互いの言葉がわからなくなる。
 少女はルークの言葉が聞き取れなかったらしく、きょとんとした顔をしていた。
「え? 今なんてったの?」
「だから、ダアトはどっちだ、って聞いたんだよ」
 ルークはしれっと言い放った。


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2008/2/24 シンクとルークとアニス

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