寂しい夜の闇の底
「ルーク、とお呼びしても?」
「俺は、レガートです」
導師の精一杯の親しみを込めた声を冷たくはねつけて、青年は碧の瞳を伏せた。燃える暁の空の色をした髪と同じ色の睫毛が、荒れた頬の上に影を落とす。
翠の導師は、一瞬口を引き結び、けれどめげずになお声をかける。
「気に障ったのなら、謝ります。けれど、あなたに真に相応しいのは、ルークという名だと僕には思えたから」
「無神経ですね」
言い訳じみた謝罪は、無愛想な一言に切って捨てられる。導師は陸艦の薄汚れた床に視線を落とした。無機質なそれの上に、少し前に起きた惨劇の痕跡はどこにも見当たらない。百人以上も死んだのだから、血痕のひとつ、戦闘の痕のひとつも残っていそうなものだが、導師が乗り込んだときには既に綺麗なものだった。
そこに生きていた人間の痕跡は、まるで消されてしまったかのようだ。
青年の視線がある一点から動いていないことに気がつき、その先を追う。そこには一台の二段ベッドがあった。青年と同じ主に仕える兵達が寝起きしていたそこに注がれる、温度のない視線。
彼は今、何を思っているのだろう、と導師は考えた。
青年とはじめて逢った時、彼の瞳には仲間を奪われたことに対する明らかな怒りと、そして哀しみがあった。けれど今、彼の顔に表れているのは、いっそ冷酷ともいえる無関心だけだ。
何があったのだろう、彼はそれを自分に語ってくれるだろうか。導師は頭の中で、その可能性を否定した。
会話をしたいと、無理を言って彼を部屋に呼び出した。アリエッタやシンクを部屋から追い出し、二人っきりで話をしたいと。六神将の二人は厳しい顔をしていたが、それでも最後には折れてくれた。
けれど、目すらあわせようとしない青年が発する、あからさまな嫌悪の感情を、やわらげる方法がわからない。そんな状態で自分の望む会話をするなど、それこそ無理な話だった。彼の心をほどくのは、とても、とても難しいことに思えた。
だからと言って、何もしないという選択肢を選ぶことは、導師にはできない。
違うけれど同じ存在である彼を放っておくことは、どうしてもできなかったのだ。
まずこちらが胸襟を開かなければ、相手も心を開いてはくれない。イオンは意を決して、自分の正体を明かすことにした。
「ルーク、僕はレプリカです」
レプリカ、という単語を聞いた瞬間、青年の肩がびくりと震えた。が、彼はその動揺を見事になかったことにして、平坦な声で、はい、と答えた。
「知っていたんですか」
導師は一瞬驚愕し、すぐさま納得した。曖昧に肯定の意を示す青年の監視役(彼はおそらく今この瞬間もこの部屋の外でこの会話を聞いているのだろうが)、あの少年が予想通り、導師自身と同じ人物のレプリカであるのならば、彼がそれを知っているのも頷ける。
仮面をして隠しているとはいえど、自分と同じ声で同じ体格の相手が、導師しか使えないはずの譜術を使えると知れば、その正体は明白だった。同様に、自分の正体がレプリカであることを知っている彼にとっても、それは容易な謎解きだったに違いない。何せ青年は、あの死霊使いの養い子なのだから。
導師は青年の、常に腰の短剣から離すことのない右手を見た。青年の利き手は左のはずだから、それは剣士というよりは、戦士としての癖なのだろう。もっとも、それを彼自身が生き残るために癖にしたのか、つまり本当に戦場で身についたものかどうかを、聞いてみたことはなかった。
導師は、自分が彼に何を言うべきなのか、しばらく逡巡した。自分は何を言いたかったのか。
同じレプリカだとは言うが、彼と自分では置かれた立場が随分と違う。同じなどでは決してないのだ。たとえば、レプリカとオリジナルのように、同一の存在である筈なのに重ならないのと同じように。
彼は何かを天秤にかけている、と導師は確信していた。
何かを決めようとして決めかねている。けれど、おそらく選択肢はもう残っていない。追い詰められたもの特有の悲壮な気配を、再会した彼は持っていた。
彼が天秤にかけて、その結果捨てようとしているものは、おそらくとても致命的なものだ。
頚木となればいい。願いながら、言葉を探す。自分がレプリカだから言う訳ではありませんが、と前置きして、導師は告げた。
「その命がつくりものだとしても、あなたは聖なる焔の光そのものだと、僕は思います」
青年の碧い瞳が、ゆっくりと導師の方に向けられた。それが揺れているように見えるのは、導師の願望が見せた幻ではないと、思いたかった。
「…俺の存在は、預言を狂わせる」
しばらく経って、それまで沈黙を保っていた青年が、低い声で呟いた。彼が、他の誰にも話すことのない秘密を自分に明かそうとしていることに、導師は気がついた。
「そのせいで死ぬ筈のないオリジナルたちが死んだ。…今更、どうこう言ったってどうなるもんでもないけど」
かすかな声を聞き逃さないように、導師は耳を傾ける。無意識にか、敬語が剥がれてしまった青年の口調は、どこか幼いようにも思えた。
「せめて俺の手で守れるものがあるなら、…俺は俺が守りたいもののために、俺の命を使いたい」
青年の揺れていた瞳は、今はもうしっかりとした光を宿していた。強固であるのに、どこか危ういそれを、導師は理由もないのに怖れた。
「俺がもし、あんたの言うとおりに、聖なる焔の光であるなら、…そうなれるなら、俺はそうする。たとえ、誰を敵に回しても」
迷いなく言い切った青年は、再会してから初めて、屈託のない笑みを見せた。その瞬間、天秤の皿は落ちてしまったのだと、導師は知った。
「…ルーク、あなたは、何をするつもりなのですか?」
問いかける声は震えた。それが何かはわからないが、彼がもし答えてくれるならば、きっとそれは聞きたくない答えだろうという強い予感があった。
青年は微笑んだ。かぶりを振った。答えられない、と。
落胆と安堵とを同時に味わいながら、それでは僕はあなたがたに協力することは出来ない、と導師が告げると、青年は顔色を変えた。
扉の向こうの気配が変わったことに、導師は気づいた。こちらを窺うようなそれに、もうすぐ時間切れであることを知る。
それに気付いているのかいないのか、おそらく後者だろう。青年は蒼褪めた顔で、導師に懇願する。
「…頼む、導師。今は何も言わずに、俺たちに従ってくれ。あんたは必ず生きて帰すから」
「危険なことをするつもりですか?」
青年の必死の形相に、半ば確信を持って問うと、相手が息を呑んだのがわかった。しかしすぐさま彼は、その一瞬の沈黙を打ち消すように、導師から目をそらし、否定の言葉を口にする。
導師は彼を見極めようと、その表情を観察した。強張った顔はやや蒼褪めて、乾燥した唇がきつく引き結ばれている。
部屋の外の少年は、割り込むタイミングを図っているようだった。タイムリミットが来てしまったのだ。
導師は決めた。
「あなたが生きて帰ってくると、約束するなら、協力します」
青年は、虚を衝かれたようだった。導師は、さらに念を押す。
「約束できないなら、僕は決して協力しませんから」
青年の碧の瞳が揺れた。彼は何かを飲み込むような顔をして、目蓋を伏せた。
「…わかった。約束する」
「絶対ですよ」
「ああ」
短く青年が頷くのと同時に、部屋のドアが開いた。その外にいた仮面の少年は、つかつかと入ってくるなり、青年の腕を掴んで、導師の方に首だけを向けた。
「面会時間は終わりだ、導師。行くよレガート」
それだけ言って、返事も待たずに彼は青年の腕を引き、部屋を出て行こうとする。放せ自分で歩ける、うるさいなさっさとついてきなよ、と険悪に言い合う二人の背中に、導師は声をかけた。
「おやすみなさい。また、明日」
二人はあっけに取られた様子で、しばらく導師の顔をじいっと見つめていた。やがて、青年が柔らかな微笑を浮かべる。
「…ああ、おやすみ」
仮面の少年は二人のやりとりを聞いて、どうしようもないとでも言いたげに大きく溜息をついた。乱暴に青年の腕を引き、無言のままで出て行く。
ばたん、と扉が閉まった。それからしばらくの間、導師イオンは、その場所に佇んでいた。
目を閉じて、先ほどの青年の笑顔を思い出す。
髪と同色の赤い睫毛に彩られた、こぼれそうな碧色の瞳。少年らしさの残る、丸みを帯びた頬。すんなり通った鼻の下で、やさしい弧を描く唇。
それはどこか、泣き顔にも見た微笑だった。
2007/3/28 イオンとルーク
揺れた瞳の落とす皿
薄紫色をした瘴気に包まれた鉱山の街には、人間と魔物の気配しかしなかった。
倒れている人々に構わず、レガートは黒い法衣をひるがえし、街の奥へ、鉱山の奥へと、深く進んでいった。
これでいいのだ、これで正しいのだ、と自分に言い聞かせ、重い足を運ぶ。
大切なものを守るためには、これしかない。
自分の後ろを歩くイオンは、あちこちに倒れている人々を、心配そう見つめてはいたが、それでも黙ってついてきてくれていた。彼にこれから与えるだろう精神的な苦痛を思うと、どうしようもなく苦しくなるが、しかしもうレガートには――ルークには、後戻りすることなど出来なかった。
坑道の奥には、あの男が待っていた。彼は導師に、セフィロトを護るダアト式封咒を解くように言った。導師は不審がりながら了承し、扉が開かれる。
ルークはちらりとヴァンを見た。ヴァンは相変わらず読めない表情で、ルークを観察していた。
「じゃあ」
ルークはことさら素っ気無くそれだけを言って、二人に背を向けた。
「ついていかなくてもいいのか」
「余計なお世話だ、グランツ謡将」
ヴァンの平坦な声に、ルークも無感情に返す。
「心配しなくても、俺は約束は守る。そういう人間であると、約束したからな」
「そうか。それは失礼した」
ヴァンの言葉を最後まで聞くことなく、ルークはパッセージリングへと歩きだした。背後から、不安そうなイオンの声が追ってくる。
「ルーク…? あなたは、何をするつもりなんですか?」
答えずに、ルークは足を進める。ヴァンがイオンを誘導して、坑道の外へと去っていく気配がした。
ルークは少し歩みを遅くして、周囲の風景を眺めた。創世暦時代の建造物は、不思議な光に包まれていた。緩やかに続くスロープの下のほうに、一際眩しい輝きがある。あれがおそらくパッセージリングなのだろう、とルークは見当を付けた。
明らかな人為、しかしその荘厳な空気は、こんなときでなければルークを圧倒しただろう。しかし、心は不思議に凪いでいた。
それは自分の生の理由を見つけたせいかもしれない、とルークは思った。
ルークは悪魔と取引をして、大切なものを守るために、多くのいのちを犠牲にすることにした。自分に名を与えてくれたやさしい主を、自分に強くなる方法を教えてくれた養い親を、裏切った。
生き残ることなどないとわかっているからこそできる、最悪のエゴだ。
これが自分の生きた理由になる。生きた証になる。他に何一つ遺す事のできないただのレプリカが残せる、たった一つの。
(ごめんイオン、俺はお前との約束は守れない)
世界の全てを裏切って、ルークは白い光輝の前に立った。
すらり、と腰に横向けに佩いた剣を抜き放つ。柄の部分を両手で持って、高く切っ先を天に掲げた。セフィロトの光を反射して、刀身が眩しく輝く。
ルークは全身を廻る流れを意識した。フォンスロットを開放し、内側に宿るものを外へ、外へと追い出していく。
剣が、ソルヴェイグが眩しく輝く。まるで歌うように、鋼が震えて高い音を奏でた。
凶暴な破壊の衝動が、ルークを飲み込んでいく。周囲にある全てを壊せと、頭の中で何かが叫ぶ。それを押しとどめようとする異質な何かの存在に気付き、ルークはさらに力を解放した。
気がつくと、ルークは叫んでいた。あらん限りの声で、声帯を震わせていた。それは死の恐怖からではなく、止め処ない歓喜から溢れる咆哮だった。
目の前がちかちかと瞬く。ルークは自分の内側に宿る警告の声の主に、飛び切りの殺意を込めて囁いた。
(消えたくなければ出て行け、シルフ。俺の身体から!)
とうとう警告の主は諦めたらしかった。ルークの身体から、真っ白な閃光が溢れ出す。それは周囲を巻き込んで、やがてパッセージリングへと届いた。
次の瞬間、セフィロトがぼろぼろと脆く崩れだし、ルークは足元の光を追うように、自分が落ちていくのを感じた。計画通りにうまくいったことを喜ぶ暇もなく、ルークの身体は光に崩れる。
ルークは意識を失うより前に、増していく周囲の眩しさに目を閉じた。
(ごめんなさい)
他のものを見る気力など、彼にはもうなかった。
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2007/3/28 レガートとルーク