ぬかるむ大地に立つ足は
マルクトの皇帝であると言うその男の前に呼び出された少年は、しかし既に慣れたとも言える事態に、緊張を覚えることは無かった。
この非常識な遭遇――本来のお互いの立場であればもしかしたら一生出会う事はなかったかもしれないが、大してそれを惜しいとも昔の自分ならば思わなかっただろう。
ならば今はどうか。自分の心に問うまでもない。
(絶対ろくでもねーこと言われんだろうなー…。できれば会いたくなかったな)
もっとも心の中で祈ったからと言って、それがかなう願いであるわけでもない。自分がジェイドに師事している以上、彼に出会うことはまず避けられないことではあった。少年は深く嘆息した。染めた黒い髪が揺れる。それを目敏く見咎めて、男は笑った。
「どうしたレガート。幸せが逃げるぞ」
「ほっといてください」
(つうかあんたがその原因だと何故気付かない)
既に皇帝に対する言葉遣いではないが、そんなことを気にする輩は少なくとも今周囲にはいない。
どうしようもない大人。
それが現皇帝ピオニー・ウパラ・マルクト九世に対する、レプリカルーク――今はレガートと名乗っている――の見解だ。
レガートは再び、深く嘆息した。
ルークがはじめてピオニーの前に連れてこられたのは、彼がジェイドに引き取られることが決まった直後だった。
ジェイドはルークを自分の執務室の中で待たせ、胡散臭い笑顔で見知らぬ男を連れてきて、これが皇帝だと簡潔に一言で紹介すると、とっとと部屋から出て行ってしまった。嵐のように現れては去っていく彼の背中を見送って眼を白黒させていたルークには、しかしその後更なる試練が待ち受けていようとは、たとえ立て続けに信じられないような出来事に襲われた後だとしても、予想することは出来なかった。
ピオニーはルークに快活に笑いかけ、そして言った。
「お前がジェイドの小間使いになる物好きか!」
「…は?」
ピオニーはつかつかとルークに近寄ってくると、真正面から顔を覗き込んだ。その瞳の持つ無遠慮なまでに強すぎる力にルークは眉を顰め、思わず視線を逸らす。ただ絶対に逆らわないようにとジェイドにそれはきつく言い含められていたので、何とか無言を貫いた。
「俺はピオニー。お前は?」
彼はルークに、名前を問うてきた。ルークは視線を合わせないまま、俯きがちに答える。
「ルーク・フォン・ファブレ…です。あの、ジェイドから、聞いてねえ…じゃなかった、ない、んですか」
たどたどしい敬語を笑うことなく、ピオニーは大真面目に頷く。
「いや、聞いた」
「ならどうして」
「俺がお前から聞かなきゃ意味がねえからだよ」
ルークは相手に感じた畏怖も忘れ、顔を上げてきょとんとピオニーの顔を見つめた。それを見てピオニーはくつりと笑う。
「お前の名前なんだろう?」
ルークは頷こうとして、そして止まった。
あなたはレプリカ。あなたは偽物。そう囁くジェイドの声が、頭の中を反響する。
顔面を蒼白にして凍りついたルークを、ピオニーは無感動に観察していた。
そしてふと息を吐く。
「…お前がその名前を名乗る資格がないと思うならば。俺が名前をやろうか」
ルークは、咄嗟に言われた内容を理解できず、目の前の男の顔をまじまじと見つめた。青い瞳が悪戯っぽく輝いているのが、やけに印象に残った。
マルクトの皇帝は、その言葉がルークに対して持つ重みとは裏腹に、それはそれは気軽な口調で、どうだ? と問うた。
「どっちにしろこの国で、ファブレを名乗るのは得策じゃないだろう。髪はまあ染め続けるからいいとしても、名前までそのままじゃ流石に誤魔化しきれないだろうからな」
そういって彼は、今は真っ黒に染まっているルークの髪をつまんだ。その色は、ただでさえ肉体の年齢よりは幼げな彼の顔立ちを、なおさら幼く見せている。
「…いいんですか」
ルークの震える声に気付いているのかいないのか、皇帝はああいいぜと軽く請けあった。
「とびきりの名前をつけてやるよ」
そんな顛末で数秒後、彼に下賜された名前がレガートだった。その意味を知りたいとも彼自身は思わなかったが、それをジェイドが聞いたとき、彼は少し嫌そうな顔をした。
しかしそれきり何も言わなかったので、レガートになったルークはそのことを忘れてしまった。
それからは毎日が平穏とは程遠かった。
生まれてからこの方ずっと屋敷に閉じ込められていたせいで、世間知らずもいいところで、何か問題を起こすたびにジェイドから凄まじい嫌味を浴びせられた。最近はそれも少なくなったが、それでも時々、ジェイドに嫌味の種を運んでは、もう少し物事を考えるということをしたらいかがですかとお小言を頂く。
特に酷かったのはマルクト軍に入りたいと言ったときだった。最初は猛反対だったジェイドが、交換条件と称した修行、もとい自分を諦めさせるための手段として課したロニール雪山への一ヶ月の山篭り。何とか生き残って結局入隊できたはいいものの、その次には何故かピオニー直属の仕官、別名ブウサギ係にされた。
だがそれでも最近は何かが認められたのか、それなりに『軍人』らしいこともさせてもらえるようになった。
レガートはマルクト軍では、もっぱらジェイドの雑用係として働いていた。
雑用と言ってもただの雑用ではない。手習い程度に剣を習っていた彼は、しかしよりによってジェイドの護衛を任されたりもした。
それがまさか本気だとは、流石のレガートも思っていなかった。何故ならジェイドはレガート自身よりはるかに強い。何せ踏んできた場数が違うのだから当然とも言えた。
彼は人間の死に脅えるレガートを、護衛というのを口実に、魔物や、あるいは盗賊の討伐に連れてゆき、率先して怪我人或いは死体の処理を命じた。時には誰か、人間を殺させることさえあった――それが必要な場合には。
復讐を果たしたいならまずそれがどういうことかを知りなさい。それがはじめて人を殺した日に、ジェイドがレガートに、復讐するものとしての『ルーク』に、と語ったことだった。
その夜、レガートは吐いた。そして眠れなかった。
肉を断つ何とも言いがたい感触。血を噴き出して倒れる体。その全てが生であり、そして生きるということを冒涜しているように感じた。しかしそうしたのは自分だった。
隣室で眠るジェイドを起こさないように気を使いながら、レガートは住みはじめてまだ日の浅いジェイドの屋敷に与えられた部屋で、ファブレ邸が炎上した日のことを、ふと思い出していた。
赤く染まった床、血まみれの男、光るナイフ。
(…ガイはどうしてあんなに多くの人を、笑いながら殺すことが出来たんだろう)
レガートは眩しい金髪のかつての親友を思い出し、人知れず身を震わせる。あの美しい青い瞳が憎悪に澱む様には、寒気すら感じたものだった。
彼は何故か自分だけを生き残らせ、復讐を果たさなかった。その理由がまさか本当に、レガート――『ルーク』がレプリカだからというわけでもないだろう、と彼は推測していた。
例えば、キムラスカがあの惨劇を防ぐためにレプリカルークを作ったのならば、何故もっと早くにガイラルディアを殺してしまわなかったのか。レガートは預言を全てだと考え、預言のためなら何を犠牲にしてもかまわないと言う輩を見て知っていた。しかし、預言に従うためというのならば、すでにオリジナルルークが生き残った時点で、それは果たされなかったことになる。
そしてもし『ルーク』が身代わりとして作られたのなら、ガイが『ルーク』がレプリカであることを知っているわけがない。屋敷の中に裏切り者がいるとわかっているのならば、そのような情報は隠されてしかるべきであり、そしてそれが誰かということが明確になっていればいるほど、ガイがそれを知ることは不可能である筈だった。
復讐者が偽者に復讐して、本当に満足するわけがない。
あの聡明なジェイドがそこまで考えの至らない筈はなかった。おそらくわかっていて言っていた。そのことに気付いたとき、レガートは戦慄を覚えた。
しかしそれらの矛盾に気付いてなお、レガートはマルクトを離れることの出来ない自分を知っていた。ピオニーたちが自分を利用しようとしているのだと言うことに気付いてしまったのに、その場所から離れられない。それは酷く滑稽な話だった。
ジェイドやピオニーも、ガイラルディアと同じようにレガート、そして『ルーク』を裏切っている。だから彼らを本当の意味で信じることは出来ない。
けれどレガートは、本当の自分自身の名前の無い彼に名前を与えたピオニーや、戦い方を教えるといったジェイドを、信じないでいることも出来なかった。
自分が何のために存在しているのか。何のために生まれたのか。しかし、少なくともガイのように、復讐のためには生きられない自分を、レガートは震える掌と共に、とっくに自覚していたのだった。
長かった髪を切った。赤かった髪を闇夜の色に染めた。キムラスカの、そしてガイラルディアの影から、隠れるようにして生きてきた。
しかしそこまでして生き延びるだけの理由を、彼はまだ見つけられていない。
レガートが現実に引き戻されたのは、目の前の男の語りかけによってだった。
「レガート。お前に頼みたいことがある」
「何でしょう、陛下」
金髪の男は、海の色をした瞳を真っ直ぐにレガートに向けた。レガートは無意識にその強さから逃げようとする自分に気付き、目を伏せる。
「何、簡単なことさ。セントビナーへの使いだ。グレン・マクガヴァンに渡して欲しいものがある。他の人間には頼めない――勿論、キムラスカとの関係が悪化している今、あいつをあそこから動かすなんてのは論外だ。頼んだぞ」
レガートはきょとんとして、その命令を頭の中で反芻した。そして疑問に思う。
この男はそれを伝えるためだけに、わざわざ――生まれはともかく――そう身分も地位も高くない自分を呼びつけたのだろうか、と。レガートは皇帝の懐刀とも呼ばれる程の腹心であるジェイドと、一緒に生活しているのにも関わらず。
「…お前今、ジェイドの口から伝えさせりゃいいのにとか思ったろう」
まるで心を読んだかのような台詞に、レガートは身を硬くした。彼が窺い見ると、育て親の親友はニヤニヤと、人の悪い笑みを浮かべている。
「図星だろう? お前俺のこと苦手のようだからな」
答えられずにいるレガートを、ピオニーはやれやれと言わんばかりの表情で見つめた。
「残念ながらあいつはこの後の出張の準備で忙しい。だから気を使った俺はわざわざ優しくも奴の更なる気苦労を増やさないために…というのは建前で、お前がいつまで経っても俺に懐かないから、悲しくなったんで強硬手段に出ることにした」
「…はい?」
何だか今変なことが聞こえたような、と訝しげな顔をしたレガートに、皇帝陛下はのたまった。
「俺と顔を合わせる回数が増えりゃ自然と俺に慣れるだろう?」
「…俺、毎日陛下と顔あわせてた時期もありましたよね」
皇帝に口答えをするなというルールは、この二人の間にはない。かなり最初に皇帝たるピオニー自身がそう命じたからだ。
彼は大げさに肩をすくめて見せた。
「だが現にお前は俺に懐いていない。それが嫌なら、きちんと視線を合わせて会話をするんだな」
ん? と念押しされ、レガートは渋々ピオニーと視線を合わせた。
自信に満ちた透き通る蒼が、真っ直ぐにレガートを射抜く。彼はまたため息をつきたくなり、これでもうすぐ今日だけでも三回目になるということに気がついて、思わず視線が遠くを彷徨った。
(幸せって、何だっけ)
ジェイドに拾われてからというもの、不幸と幸福の振幅の激しい人生を歩んでいるせいで、すっかり諦めの良くなっている自分にレガートは気が付き始めていた。それが良いことなのか悪いことなのかは、今ひとつ良くわからないが。
レガートは儀礼的に腕を胸の前に掲げ、皇帝陛下の命を有り難く受けた。
「了解いたしました、陛下。レガート・ミルテ、只今よりセントビナーに向かいます」
「その『了解』はどっちにかかってるんだ?」
人の悪い笑みを浮かべ、ピオニーは踵を返しかけたレガートを呼び止めた。
レガートは、みどりいろの瞳をしばらく泳がせ、そして答える。
「陛下の『命令』にです」
「ほう」
レガートは腰にはいた剣に手を当てた。そのまま剣帯から鞘ごと外し、両腕で自分の胸の前に掲げる。
「この剣にかけて。必ずや、任務を果たしてみせます――俺に名をくれたあなたのために」
ピオニーは微妙な笑顔を浮かべ、大仰なことだと呟いた。レガートはくすりと笑う。
そして今度こそ踵を返し、皇帝の部屋から出て行った。
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2006/7/23 ピオルク