ひ と で な し の 恋

霞む視界にひとりきり



 薄暗く、少しばかり埃っぽいその場所でルークは目を覚ました。
 酷く重い瞼を押し上げると、厚いカーテン越しに僅かな光が目に入る。これが屋敷であれば、彼の幼馴染でもあり世話係でもあった男が、今頃とうにそれを開けていたはずだった。
 しかし彼の今いるその場所は屋敷ではなく、そして幼馴染もいない。彼は数日間この場所を離れると言って、そのすぐ後に自分は意識を失った。
 意識を失う寸前、彼がこういっていたのが聞こえた。ルークが先ほど飲んだ茶に含まれていたのは強力な麻酔薬で、数日は目を覚まさないだろうと。
 その後遺症だろう――手足もろくに動かせない中、彼が目覚めることが出来たのは、彼が七年間慣れ親しんできた酷い頭痛のおかげだった。
 がんがんと耳鳴りがする。そしてルークはふとその異臭に気がついた。
 何かが燃えているような臭い。火事だ、と誰かが部屋の外で叫んでいるのが聞こえ、彼は全身から血の気が引くのを感じた。
 まだ俺がいる、誰か助けてくれ! 叫ぶ声は声にならない。麻痺したままの手足では動くこともままならない。ルークが唯一自由になる眼球を動かして状況を窺うと、部屋の出入り口の向こうから、ちらちらと緋色の焔が扉の隙間を舐めているのが見えた。
 自分はここで死ぬのだとルークは唐突に悟った。結構な話じゃないか、と彼は自分の心の中で吐き捨てる。
 ガイラルディアには殺されなかったが、こんな火事で自分は死ぬのだ。或いはこの火事すら彼が図ったことかもしれなかったが、そんなことはルークにとってどうでも良かった。
 家族を殺され、周りの者を殺されつくし、挙句その犯人に情けなくも浚われてこんな場所にいる。親友だと思っていた男に裏切られ、その男に囚われている。
 頭の中に響く頭痛は止まない。最後くらい解放してくれたっていいだろうと心の中で、半分やけっぱちで毒づくと、唐突に聞きなれた幻聴が聞こえた。
(…ない。力を解放、する)
 何だって? ルークは問い返した。最後まで訳のわからないことを言うな――そう文句を言おうとした刹那。
 彼は身体の中心から何かがぶれていくのを感じた。目の前が真っ白な光につつまれ、そして彼の姿は、焼け落ちる部屋から消えていた。

 白い光が瞼越しに感じられ、ルークはうなった。眩しいのだ。しかしそれはすぐ、淡い影に遮られる。
「…気がついたようですね」
 酷く耳ざわりのいい声がする。しかし記憶の中にその声の主は見当たらない。
 ルークはゆっくりと目を開けた。目の前に、酷く造作の整った男の顔があった。眼鏡の奥の赤い色の瞳が宝石のようにきらきらと輝いていて、素直に美しいと思う。
「…ここ、は?」
 その質問に、男は一瞬面食らったような顔をした。しかしすぐに笑顔になって、グランコクマですよと答える。
 グランコクマ。聞き覚えのある名前を口の中で反復し――ルークは咄嗟に跳ね起きた。しかしすぐさま襲ってきた眩暈に、再び寝台へと逆戻りする。
 何をやっているんだと言わんばかりの男の表情は、しかし一瞬で元の笑顔に戻る。
「まだ起きない方がいいですよ。薬が抜け切っていないですから」
「あんたは…」
「ああ、自己紹介が遅れましたね。私はジェイド・カーティス。マルクト軍で、大佐という役職についています。…ところで」
 男は完璧な笑顔のまま、しかし声の質だけを微妙に変化させた。柔らかなそれから、少し冷たい色を帯びたそれへと。
「私もあなたの正体が知りたいところですねえ、不法入国者さん。バチカルの出身でいらっしゃるようですが、一体この国に何の用ですか?」
 ルークはきょとんと男の顔を見返した。ふざけているようには見えないが、何と答えていいのかもわからない。
「ここはキムラスカじゃねえのか…?」
 ジェイドはそれを肯定し、そしてもう一度先ほどと同じ事を重ねて問う。
「確かにここはマルクト領です。異様な第七音素の飛散と収束とが確認されたのでその収束地点に行ってみれば、あなたが倒れていたわけですが。…一体何があったんですか?」  ルークは中途半端に切り落とされたせいでざんばらになった髪の中に手を突っ込んだ。そのままぐしゃぐしゃとかきまぜる。
「んなこた俺が知りてーよ…さっきまでクスリで眠らされてたかと思えば、いきなりマルクトだって? 冗談じゃねえ」
 ジェイドはしばらく、ルークの表情を探るように見つめていたが、しばらくして息を吐いた。
「…嘘をついているようには見えませんね」
「ったりまえだっつの」
 声音に棘が混じってしまうのは仕方ないだろう、とルークは思っていた。何せジェイドは敵国の人間であるし――ルークが十歳以前の記憶を失ったのも、そもそもはマルクトのせいだと言われている。そして何より、この男の笑顔は、非常に胡散臭かった。
 ジェイドはしかし、大して気にした様子もなく、逆に笑顔のままで問うてくる。
「では、あなたの名前を教えてもらえますか」
「ルーク・フォン・ファブレ」
 即答したルークに、ジェイドは今度こそ驚いたように固まった。それから口元に手をやり、ふむ、と何事かを呟く。
「俺もお前に聞きたいんだけど、何で俺がバチカルの出身だってわかった?」
 ジェイドは再び驚いたような顔をした。しかし今度はおかしそうに笑う。
「赤い髪に緑の瞳。キムラスカの王族の特徴でしょう」
 ああ、そうか――納得しかけて、はたとルークは気がついた。髪はガイによって、金色に染められていた筈だ。不思議そうな顔をしていたのだろう、ジェイドはあっさりと答えをくれた。
「あなたを見つけたのは森の中でした。酷く汚れていたのでとりあえず連れてくるときに洗ったんですが、多分その時に染め粉が落ちたんでしょうね」
 もっともそのせいで、余計な混乱を招かないために、わざわざあなたを隠しながらここまで連れてこなければならなかったんですが、と嫌味とも取れる言い方をして、ジェイドは締めくくりに微笑んだ。
「ところで。参考程度に、あなたがここに来るまでの状況をお聞きしたいのですが」
「…つっても俺にも良くわからねー。部屋が火に包まれたと思って意識をなくしたら、何でかいつの間にかここにいたんだ」
「ほう。ではバチカルのファブレ邸が炎上したというのは本当なのですね」
 ルークは頷きかけ、そして男が何か思い違いをしていると言うことに気がついた。
「俺が言ってるのはそっちじゃない。…その後の、別の場所のことだ」
 ジェイドは訝しげな瞳をルークに向けた。ルークはその赤い瞳から逃げるように赤い睫を伏せる。
 答えを促されているのはわかっていたが、口に出すにはまだ少し、勇気が必要だった。
「俺は…浚われたんだ、ファブレ邸から」
「誰にです?」
 間髪いれずにジェイドが聞き返してきた。その眼の奥には何か底知れぬ光が澱んでおり、ルークは舌に何かが絡みついたような心地で、答えを返す。
「…屋敷の人間を、俺以外全滅させた奴に」
「名前は」
 ルークはかぶりを振った。言いたくない。認めたくなかった。しかしジェイドはそれを許さない。
「知らないのですか?」
 もういちどかぶりをふって、否定の意を伝える。ジェイド・カーティスは、酷く冷たい表情になった。
「それでは…言えない、と?」
「…そういう、訳じゃ」
「ならば言えるでしょう」
 冷たく、言い放たれた言葉に、ルークは唇をかんだ。それから、ほとんど掠れたような声で答える。
「屋敷では、ガイ・セシルって呼ばれていた。本当の名前は、…」
 ジェイドが無言で先を促す。ルークはすこし息を吸って、ため息をつくような心地で答えた。
「…ガイラルディア・ガラン・ガルディオス」
「ガルディオス、だと?」
 軍人の声音に、僅かに動揺が走る。ルークはそれに気付き、端正な男の顔を見つめた。
「知ってるのか?」
「…ええ、まあ」
 言葉を濁しながら、男は眼鏡を人差し指と中指で押し上げた。そのせいで一瞬その表情が窺えなくなる。
「それではその人物が、あなたにあの薬を盛ったんですね?」
 ルークは無言で頷いた。ジェイドはため息をつきかねない声で、小さな瓶をルークに見せる。とろりとした液体が八分目まで入ったそれの正体を視線で問えば、ジェイドは同じものですよと答えた。
「一種の神経毒ですね。これを使われた対象は特定の解毒剤を体内に吸収しない限り、ほぼ永久に自らの意志で動くことは出来ません」
 全く趣味の悪い薬もあったものですと、興味なさそうにそれを近くにあったテーブルの上に無造作に置き、軍人はルークの顔を真正面から覗き込んできた。
「それでは最後の質問です。――ルーク、あなた、記憶が存在しない時期、と言うものはありませんか?」
 ルークは完全に面食らって、目の前の男の顔をまじまじと見つめた。
「何で知ってるんだ? 確かに俺は誘拐される以前の記憶が――あ、あれはやっぱりおまえらがやったのか?!」
 ジェイドはかぶりをふり、そして一枚の紙をルークの目の前に突きつけた。どうやらそれは何かの書類の一部のようだった。最初は訝しみながらもその内容を読み進めていくうちに、ルークの顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
 ジェイド・カーティスは、感情のない声で告げた。
「不思議ですか?」
「…ったりまえだ! 何だってこんな――」
「答えを教えてあげましょう、ルーク」
 言うなりジェイドは、何事かを呟き――そしてその掌の内に、もう一枚、全く同じ新聞を現出させて見せた。
「…なっ」
 驚くルークに、ジェイドは冷たいとさえ言える声音で、淡々と述べた。
「望むならいくらでも増やして見せますよ。…ルーク、これが答えです」
「え――」
 ジェイドの赤い瞳に、呆然としたルークの表情が映る。
「あなたを森で拾ったときに、簡単な身体検査をさせてもらいました。解毒薬…あの薬は強いものなんです。ですからあれに対する拒絶反応が出ないかどうかを調べる必要がありました。しかしその検査の結果、それ以上に驚くべきことがわかりました。そして今あなたの話を聞いて、その理由も判明した」
 そこでジェイドは言葉を切った。
 この先に来るのは致命的な――何か致命的な一言だ。ルークは直感的にそれを悟り、知らず身を硬くする。
 ジェイド・カーティスは、ルークの顔を、張り付いたような笑顔さえ消して真っ直ぐに見つめた。そしてルークはその眼が、何か別のものを見ているということに気付く。
 それをルークが問う前に、ジェイドは言った。
「結論を言いましょう。あなたはレプリカ――おそらくは、そのファブレ邸での惨事を予想した何者かによって作られた、身代わりの偽物です」
「な…そんな、嘘だ」
 かぶりを振るルークに、ジェイドはさらに容赦ない言葉を突きつけていく。
「いくら酷い記憶喪失だからと言って、歩き方や言葉まで忘れると言うことは、無いとは言いませんが、そうあることでもないでしょう。…ああ失礼。少なくとも、戻ってきたとされたときのあなたはそうであった筈ですね?」
「なんで、それを」
 悲壮な顔で首をふり続けるルークに、ジェイドはいっそ哀れなものを見るような視線を向けた。
「検査の結果、あなたの身体は第七音素だけで出来ているということがわかりました。…それに」
 ジェイドは、ふとその書類に視線を落とした。その見出しにはこう書かれている――『ファブレ邸の火災とルーク・フォン・ファブレの生還について』。
 その中には彼が今までダアトのローレライ教団に秘密裏に預けられていたこと、それゆえにファブレ邸の不審火から助かったと言うことが事細かに書かれていた。
「ガイ、とかいいましたか。この事件の犯人が、あなたを殺さなかったのも。…おそらくはそれを知っていたからでしょう」
「…何だって?」
 ルークは、心臓に冷たい釘を差し込まれたような気がした。しかしジェイドは言葉を澱ませることも無く、その先を続ける。
「彼がファブレ家にいたのは復讐のためだった。ならば、本物を殺さなければ意味は無いでしょう。あなたが偽物のレプリカだと知っていたからこそ、彼はあなたを殺さなかった」
 がくがくとルークの膝が震える。それは嘘だと、そんなのは悪い冗談だと、誰かに言ってほしかった。けれど彼の目の前の男はあくまでも無表情を貫き、ルークはひたすらかぶりを振り続けるしかない。
 ジェイドは冷たい――けれど、どこかに同情を含んだ声で、ルークに言った。
「辛いでしょうが認めなさい。あなたは身代わりの駒だ――『本物のルーク』を守るために作られた!」
 ルークがもう少し落ち着いていれば、その声の中に多大なる嫌悪と、少しの後悔と自嘲が混じっていたことに気付いただろう。しかしルークは、ジェイドがつきつけた真実に絶望し、それに気付くことはなかった。
「…憎くありませんか、ルーク」
 唐突に優しくなった声に、ルークはいつの間にか俯けていた顔を上げた。ジェイドは胡散臭い笑顔に戻り、そして甘い声音で問う。
「憎くありませんか、ルーク。自分を駒として生み出したキムラスカが。自分を裏切った者達が」
 ジェイドはそっと、屋敷に軟禁されていたせいか、育ち盛りの少年にしては白くなめらかなルークの頬に触れた。数日ぶりに触れる人間の体温に、ルークの身体が震える。
 彼は優しくその身体を抱きしめ、そして耳元で毒を流し込む。
「復讐を、したいとは思いませんか?」
 それは甘美な誘惑だった。何かおかしいと引っかかるものを感じながら、しかしルークは逡巡する前に、既に答えを出していた。彼はこくりと頷き、そして傷ついた翠の瞳で、真っ直ぐにジェイドを見上げた。
「…どうすればいい?」
 問いかける子供の声に、僅かな震えを感じ取り、ジェイドの胸をちくりと何かが刺す。しかし彼はその痛みを無視して告げた。
「私の傍にいなさい。戦う術を、あなたに教えてあげましょう」
 悪魔の囁きに、愚かな少年は頷いた。

 こうして聖なる焔のレプリカは、死霊術師に飼われることになった。


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2006/6/26 ジェイルク…?

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