ひ と で な し の 恋

斯くも儚く世界は終わる


 きっかけは些細なことだった。しかしそれは自分の中で均衡を保っていた何かの線をたやすく引きちぎった。
 後はもう溢れる憎しみのままに衝動のままに、五歳のときから耐えてきた悲しみと怒りを剣に乗せて突き立てるだけだった。
 臨界点を越えた感情はかえって理性を冷静にさせた。剣を突きつけ引き抜きまた突き立てるそれだけを、ひたすら歯車仕掛けの音機関のように繰り返した。
 己の本当の名を呼び自分を止めた男は、この手でその首を斬りおとした。彼の頬から流れる涙を無感動に見下ろして、それからすぐに次の殺戮へ向かった。
 そのとき確かに、自分は笑っていた。

 ガイラルディアは眠るこどもの頬に、そっと荒れた手で触れる。
 剣を扱うせいで分厚くなった手のひらの皮は、こどもの柔らかなそれとはどうあっても相容れない。すうすうと半開きの唇から空気が出入りしている、その平和な様子とは、どうあっても相容る事はできないだろうと思って、彼は少し哀しくなった。
「ルーク」
 少しかすれた声で名を呼んだ。家の中を駆けずり回ったせいで、少し息が上がっている。
 あとはこの手のひらのうちのたった一人に、この剣をつきたてるだけで。それだけでこの復讐は果たされる。
 父親の形見の剣がたっぷりと血を吸って鈍く赤く月光に輝いた。
 ずるずるとひきずってきた赤い痕に含まれるのは、この屋敷の他の人間の血だけではない。
 頬に一条、そして腹部にもそれほど深くはないが、ガイラルディアもまた傷を負っていた。
「ルーク」
 子供は目を覚まさない。あれだけの騒ぎがあったのに、すやすやと。まるでその空間だけ、この広い屋敷の惨状から切り離されているようだった。
 ガイラルディアは剣を振り上げた。そのまま切っ先をこどもの喉元に向けて、振り下ろした、刹那。
 赤い睫がぴくりと動いた。下ろされたガイラルディアの腕もまた、その場で止まる。
 ルークはうっすらと目を開けた。薄い瞼の下から、うつくしいエメラルドグリーンの瞳が、僅かにのぞいた。
「…が、い?」
 寝起きだからだろうか、舌っ足らずな声で、ルークは瞳に映った男の名を呼んだ。
 ガイは思わず剣を背中に隠した。この子供にこんな汚いものを見せてはいけない。
 しかしすぐさまその馬鹿馬鹿しさに気付き、彼は心中で密かに苦笑した。
「ルーク」
 ガイはこどもの名を呼んで、そしてもう一度その頬をなでた。こどもはまばたきをして、そしてふと何かに気付いたように大きく目を見開く。
「何でお前、明日まで戻ってこないんじゃ…っ、ガイ、お前、怪我してるじゃねえか!」
「ああ」
「ああ、って…お前、血ィいっぱい出てんぞ?! 痛くねえのかよ?」
「大したことないさ」
 そういってガイが笑って見せると、お坊ちゃまはそれでもどこか心配そうに(彼は非常に感情が表情に出やすい)、けど医者行ってきたほうがいいんじゃねえか、と言った。
 医者、ね。ガイが笑う。ルークは怪訝そうな顔をした。
「なあ、ルーク。お前、屋敷の外に出たいんだろう?」
 唐突な話題の転換に、ルークはきょとんとした顔で不思議そうにガイを見つめた。それからすぐさま頷く。
「そりゃ、当たり前だろ」
 その返答にガイは口元に満足そうな笑みをたたえた。それに底知れぬ冷たさを感じ、ルークは知らずベッドの上で後ずさる。
 ガイラルディアはそれを気にせずに、薄い笑いを浮かべたままで、ルークに一つの問いを与えた。
「入り口のない鳥かごの中の鳥を逃がすには、どうしてやればいいと思う?」
「…ガイ?」
 不審そうな顔を向けられても、ガイはそれ以上何も答えようとはしない。ルークはしばらく考えるようなそぶりをして、それから返答を口にした。

「…そりゃ、鳥かごを壊しちまうしか無いんじゃねーか?」

「ああ、そうだな」
 ガイラルディアは笑って頷いた。
 重く血を吸った白刃を右手に持ったまま、残った左手を彼はルークにさしのべた。
「…ガイ?」
 手袋に包まれた手とガイの顔を見比べ、ルークは怪訝そうな顔をした。
「お前、何か今日、おかしくないか…?」
「ルーク」
 主であったはずの少年の言葉を無視して、ガイはルークの左手を強引に掴んだ。
 ぞっとするほどのその冷たさに、ルークは顔をしかめる。
「行こう」
   その言葉を聞いたきり、腹部に鈍い衝撃を感じ、ルークの意識は闇に呑まれた。


 赤く燃えていくファブレ家の屋敷を後にして、ガイラルディアはそっと夜の隙間に逃れた。
 人が気付くのも時間の問題だろうから、早くこの場を立ち去らなければならない。彼の腕の中の重みは、くったりと意識を失って、無防備にその命を預けていた。
 復讐を裏切ったペールギュントを殺してしまった以上、この先を一人で行かなければならないと言うことは良くわかっている。けれどどうにでもなる気がした。
 そしてふと思い直す。一人ではない。一人なんかではなかった。
「…お前が、いる」
 一人ごちて、くつりと笑う。腕の中で眠る、憎くて愛おしい、可愛らしい子供。彼に本当の痛みを教えるまで、ガイラルディアは死ぬことはない。
 目を覚ました彼は、真実を知っても、まだ真っ直ぐにガイを見ることができるだろうか?
 想像は尽きることがない。じくじくと痛むわき腹の傷すら、その妨げにはならなかった。
 バチカルの深い闇に降りながら、ガイラルディアは笑っていた。

 (この剣をお前に振り下ろすのは、お前に絶望を教えてからだ)


2006/6/13 ガイ→ルーク





切り落としたのは救いの御手



 ガイラルディアは全てを子供に語ってやった。
 彼があの陽だまりの屋敷で過ごした十数年間、その間何に生き何のために子供を育てたか、余すところなく全て全て全て。
 絶望した子供は掠れた声でガイラルディアの名前を呼んだきり、何を言っていいのかわからない、と言った風情で、呆然とガイラルディアの顔を見上げていた。
 ガイラルディアは優しく笑った。その場に似合わないほどに柔らかな手つきでルークの長い、先に行くほど色の抜けていく髪をひと束すくい、恭しく口付けた。
 ずっとこうしてやりたかったんだ。そういって彼は、月光にぬらりと光るナイフを取り上げた。
 ざくり、と音を立てて、赤い髪が床に落ちていく。最初に切り落とされたひと束は、あろう事かガイラルディアの手の中で光となって消えていった。
 ガイラルディアはその様子を驚いたように見つめ、そして同じような顔をしているルークに視線をやった。
 ざくり。ガイラルディアがもうひと束髪を切り落とした。それも先ほどと同じように消える。
「…どういうことだ?」
 朝焼けが、狭い宿の部屋の中に、冷たい明かりを落としていく。


 ファブレ邸の炎上はすぐさまバチカル周辺にまで広がる大事件となった。
 下手人として名が挙がったものはしかし、誰もが何らかの不在証明を持っていた。ただ一人生き残った屋敷の人間であるガイラルディアもまたその疑いの網を逃れ得なかったが、彼は先日から他の地方に出かけており、その時間には宿にいたと言う証言も取れていたため、取調べは短時間で終了した。
 ファブレ公爵夫妻の遺体が焼け跡から発見された。その子息であるルーク・フォン・ファブレの遺体は発見されなかったのだが、出火したと思しき場所、及びその周辺の惨状から見て、彼もまた死んだものと思われていた。
 ガイラルディアはおおむねその経過に満足していた。後はルークと共に人知れず姿を消すだけだ。
 事件以後、近隣の村に逗留したまま、表向きは痛ましい事件を悔しがる振りをしながら、彼はその日を慎重に待っていた。
 ルークの赤い髪と緑の瞳の組み合わせは目立つので、髪を無理矢理金色に染めて、親戚だと言うことで通すことにした。
 後はマルクトなりダアトなりに行ってしまえばいい――そう思っていた彼の計画を覆すような事件が起こった。
 数日後、突然城から呼び出されたガイラルディアは、そこで信じられないようなものを目にした。
 そこに立っていたのは、今朝、ガイラルディアを苦しげな目で見つめていたのと全く同じ顔の男だった。
 突き刺さらんばかりの敵意をガイラルディアに向けた男は、口を開くなりこう言った。
「ひさしぶりだな、ガイ」
 あろうことかそれは、五年前に記憶を失う以前のルークそのものの話し方であった。
 男の隣にはもう一人、見慣れた幼馴染が、渋い顔をして控えていた。
 その場所にはナタリア姫もいて、興奮したようにルークにしきりに話しかけていた。
 会話の中からいくつか気になる言葉がでてきた。本物だの偽物だのレプリカだの替え玉だの。
 彼女の言っていることを要約するに、どうも死んだのは『偽物』のルークということになっているらしい。どういうことだと視線で問えば、幼馴染は姫やその周りの人間を、差しさわりのない言葉で部屋から追い出した。
 そして彼は人払いを済ませるなり、こういってのけた。
「こうなるならばもっと早くあなたに教えておけば良かった」
「…どういうことだ、ヴァン」
 ガイラルディアの育ててきたルークとは違う、傲慢な色を宿した瞳は、視線でこちらを殺そうとでもしているかのようだった。
「お前が育ててきたのはおれの偽者だってことだ」
 ガイラルディアは驚いた。そしてヴァンは事情を説明した。ルークはアクゼリュスを滅ぼして死ぬ予定であったこと。その預言を避けるために、偽物のルークが作られ、バチカルに返されたこと。今ここにいる傲岸な男こそが本物のルークであり、彼はダアトでヴァンの部下として動いていたということ。
 その話を聞き終えた瞬間、ガイラルディアの頭の中を支配したのは、どうしようもない怒りと暗い喜悦であった。
 ガイラルディアは続けて、レプリカルークの処遇について聞かれた。そのとき彼の頭の中に、ある考えが浮かんだ。
 彼は酷薄な笑みを浮かべて言った。
「殺したよ。…光になって消えたもんだからどういうことかと思ってたんだが、そういうことか」
 その返答に、本物のルークは深くショックを受けたようだった。ヴァンはため息をついて、そうですか、とだけ言った。
「ヴァン。もう一ついいか」
「何でしょうか?」
「何故、こんなまどろっこしい真似をする? お前も俺と同じようにファブレ家に復讐したいのだと思っていたんだがな」
 ヴァンの瞳が一瞬、何かを探るような色を帯びた。しかしそれはすぐさま蒼い瞳に飲み込まれる。
「預言への復讐のためです」
 そしてヴァンは説明した。彼の理想を。預言に支配されるオリジナルでなくレプリカの世界を作ると。そのくせレプリカに対しては冷たい言動を取る彼の矛盾した態度にガイラルディアは気付いたが何も言わなかった。
 ヴァンはガイラルディアにもその理想を手助けするように言った。ガイラルディアは首を横に振った。
「悪いが俺はそんなことに興味はないね。復讐さえ遂げればそれでよかったんだ」
「しかし、ホドが沈んだのは預言があったせいです」
「だからってそれが何だって言うんだ。お前らはそこにいる本物とやらを生かしたいばっかりに替え玉を作ったくせに、今度はそいつらのために世界を譲るだって? 冗談じゃない。俺はそんなものどうだっていい」
 ガイラルディアのすげない態度に、やがてヴァンデスデルカは諦めて、分かりましたと頷いた。
 それではこれからどうなさるのですかと聞かれて、ガイラルディアは少し迷った。あまりよく考えていなかった、というよりは、話して厄介なことにならないか心配したからだ。
 ヴァンはそんなガイラルディアの心理を見透かしたのか、これは出過ぎたことを申しました、と言ってあっさり引き下がった。
 本物のルークは、殺気を隠そうとしないままでこう言った。
「貴様にどんな理由があろうと、俺は、父と母を殺した貴様を許さない」
 ガイラルディアはそれを鼻で笑った。
「はっ。なら、ここで殺しあってみるか?」
 俺は一向に構わないぞと剣をちらつかせれば、ヴァンがさりげなく間に入ってそれを遮った。
「戯れも程々に。…『ルーク』、お前もだ」
 ちっと舌打ちをした男に、ガイラルディアはわざと挑発的な視線を送った。
「じゃあ悪いが、俺はもう行く」
「ガイラルディア様」
 踵を返しかけたところでかけられた声に、視線だけで振り向いた。
 ガイラルディアの青い瞳とヴァンデスデルカの蒼い瞳が空中で火花を交わす。
「…もし気が変わったら、いつでもダアトにいらしてください。歓迎します」
 ガイラルディアは今度こそ振り返らずに歩いていった。
 その背中に、痛いほどの視線を感じながら。


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2006/6/14 ガイ・ヴァン・アッシュ

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