扉の前の訪問者は、しばらくジェイドの部屋の前から動かなかった。その存在を察しながら、しかしジェイドは動かない。
普段ならば何事か、扉越しにでもとっくに問うている頃合だ。それをしないのは、その事によって潰されてしまうであろう今までの苦労を、長らく待ち望んできたその結果を、消したくはなかったから。
迷う相手の手助けをしてやるつもりは、だから彼にはさらさらない。それが彼のスタンスであり、そして、扉の前で迷う子供の言うところの、やさしさでもあった。
ジェイド自身は認めなくとも、かの子供はジェイドを優しいと評した。その事実を躍起になって否定する理由も、今はもうない。
あの子供に甘くなっている自分を、ジェイド自身もとうの昔に自覚している。
ふと、空気が変わった。あの子供が決断したらしい。それを感じて、ジェイドは口元に笑みをはく。
ノックの音。こんこんこん、規則的に三回。
「ジェイド? …居るか?」
飛び込んできたのは予想通り、あの子供の声だった。声が少し硬いのは、緊張しているからだろうか。
「ええ。どうぞ、ルーク」
返事をすると、戸惑いがちに扉が開いた。赤い髪の子供が、部屋の中に色彩を連れてくる。
不思議に、心は凪いでいた。
ルークは申し訳なさそうに、こんな遅くにごめんな、と笑った。その顔に色濃く疲れが見えるのは、おそらくジェイドの勘違いではあるまい。
彼らは後始末を軍に押し付け(ピオニーとグルになってジェイドを謀ったのだから当然の権利だと彼は思っていた)、アルビオールで一足先に近隣の村へと下りた。
村について宿を取るなり、ルークはさっさと部屋に引っ込んだ。そのまま夕食も摂らずに、目の前に突きつけられた課題と向き合っていたのだ。
そしてようやく、その答えが出たのだろう。困りきってジェイドにヒントを求めにきた可能性もあったが、それはないだろうとジェイドは考えていた。
「それで、どうしたんですか?」
切り出しづらそうなルークに、ジェイドは助け舟を出すことを自分に許した。
ルークは、しばらく口を開閉して、俯いたまま囁くように、その言葉を発した。
「おれ、選ばなきゃ、ジェイドの傍にいられないのかな」
一つ一つ丁寧に言葉を選んでいるのがわかる。
随分と愛されているものだ。ジェイドは心の中で笑う。
「そんなこともないでしょう。あれは一つの選択肢です」
別に強制というわけでもない。ファブレ公爵家に跡継ぎであるアッシュが戻った以上、ルークが無理に結婚しなければいけない理由もない。
だが、その言葉ではルークの表情の陰を払うことは出来なかった。
「…ルーク」
名を呼べば、ルークは躊躇いがちに、翡翠の色の瞳を上げた。
「他の人間が何と言おうと、あなたはあなたの好きなようにすればいいんです。言いたい奴には言わせておけばいい」
たとえば、グランコクマで散々ルークを影で蔑んできた人間を、ジェイドは知っている。
二年や少しで、敵国に家族を殺された恨みが晴れるのなら、この世界はもっと綺麗だろう。
それにファブレ公爵家に戻ったところで、レプリカのルークを厭う人間がいることも、ジェイドは知っている。
どこへ行こうが、何をしようが。異質なものを排除しようとする人間はいる。それがレプリカという存在であればなおさらに。
「ジェイド、おれ、本当にジェイドの傍にいてもいいのか?」
「好きなようにしなさい」
即座に返された言葉に、ルークは目を見開いた。
「…え」
「だから、好きなようにしなさい、と言ったんです」
あらかじめ用意しておいた回答を、ジェイドはもう一度繰り返した。
「いい、のか…?」
拍子抜けしたように、ルークは訊き返した。
「前からそう言っているでしょう。…何なら、プロポーズでもしてさしあげましょうか?」
それを聞いて、ルークはジェイドの顔をまじまじと見つめた。その顔にはでかでかと、信じられない、と書いてあって、ジェイドはため息をつきたくなった。
「本当に? おれで、いいのか?」
なおもそう聞いてくる子供を、ジェイドは真っ直ぐに見つめ返す。
こんなに何度も言っているのにまだ信じられないのか。思わず叫びそうになるほどの苛立ちが、心の中で渦巻く。
「それは私のほうが聞きたいですよ」
吐き捨てた台詞はジェイドの予想より、ずっと冷たい温度をしていた。
ルークは翠の瞳を丸くして、それから怪訝そうな表情になる。
「私はかつて、あなたに死ねといいました。それを後悔したことはありません。何度あの場所に戻されようと、私は同じことを言い続けるでしょう」
ジェイドの言葉に、ルークは眉を寄せた。それは実に正しい反応だ。そう思いながら、彼は続ける。
「私はあなたではなく国を取ります。ガイとは違って、世界を選びます。あなたを一番に選ぶことはない」
言い放ってやれば、こどもは一瞬哀しげに瞳を揺らした。ぎゅ、とその拳がかたく握られる。
その手を取ることもせずに、ジェイドは淡々と言葉を繋ぐ。
「私は冷たい人間なんですよ。自分が生き延びるためになら、他の何を殺したって構わない」
たとえそれがあなたであろうとも。とは言わなかった。
彼は少しも真実が混じっていない嘘を見抜くのは、とても上手だ。否、上手になったと言うべきか。
ルークは真っ直ぐな瞳で、ジェイドを射抜く。
「…ジェイドは冷たくなんかないよ」
こどもの言葉は、やはりというか、予想通りのものだった。
血まみれの手のひらの、真っ直ぐなこども。みどりいろの瞳を、しかし今は揺らがせることもない。
「ジェイドが言ったんだろ。誰だって、何かを犠牲にして生きてるって。…だったら、それは正しいんだよ」
正しい。はっきりとそういってのけた子供を、ジェイドは思わずまじまじと見つめた。
このこどもはやはりおかしい。ジェイドは先ほどの考えを訂正する。
「…自分に死ねと言った男の、傍にいたいと言うあなたの気が知れない」
ジェイドがそういってやれば、ルークは困ったように笑って、俺もそう思うよと返した。
「だけどしょうがない。…俺は」
ジェイドがすきなんだから。そう続けられた言葉に、ジェイドはうっすらと笑みを浮かべた。
知っていましたよとジェイドは答えた。驚くルークに、極上の笑みを向ける。
「知っていましたよ」
ジェイドはもう一度繰り返した。
「あなたが私を好きになってしまったことも、それをずっと隠そうとしていたことも。ずっとずっと、知っていました」
どうして、と言おうとするかのように、ルークは口を開いた。しかしその言葉が吐き出されることも無く、ルークの唇は閉じられる。
「あの旅の間に、余計な感情は不要でしたから。私は見て見ぬふりをした」
ジェイドがさらにそう重ねれば、ルークは哀しげに顔をゆがめた。
「…どうして、ジェイドは、そうなんだろうな」
「仕方ありません。そういう人間ですから」
「そうじゃなくて。…どうしてお前はそういう風に、自分のことを悪く見せようとするのかな」
ジェイドはがつりと頭を殴られた気がした。赤い髪のこどもは困ったような笑顔で、凍りついた男に手を伸ばす。
「私は真実を述べているだけですが」
「そうかもな。…だけど、俺にはジェイドが自分で言うほど、冷たい人間には思えない」
ルークの手がジェイドの手の上に重なる。いつの間にか握り締めていた手を、それはゆっくり解いた。
「いつだってジェイドは優しかったよ。ジェイドの傍になら、本当に自然にいられる。俺はジェイドの傍にいたいんだ」
そういってルークはにっこりと微笑んだ。ジェイドも同じように微笑み返す。
「そうですか。なら決まりですね」
「うん?」
何が決まりなのか。ルークは笑顔のまま首をかしげる。
いきなり先刻のシリアスな空気もどこへやら、がらりとジェイドの笑顔の質が変わったことに、彼女は気付けなかった。
「何せ両思いですからね。せっかくのチャンスをふいにするつもりはありませんから、今からアッシュのところに報告に行きましょう」
「…え」
唐突な展開に、ルークの頭は追いつかない。うきうきとルークに握られた手を拘束し、ジェイドは機嫌よさそうに言った。
「ああ良かったですよルーク。予想通りとはいえ、あなたが私を選んでくれて本当に幸せです」
ルークの表情筋が引きつる。予想通り、と繰り返したその唇は、わなわなと震えていた。
「…ジェイド、まさか」
俺、騙された? ルークが呟くと、まさかそんな人聞きの悪い、と胡散臭く笑ってジェイドが返した。
「九割は本音ですよ。ただ、ちょっと演出をしてみたかっただけです」
「俺は本気で言ったんだけど」
「ええ、わかってますよ」
呆れたようなルークの視線が、ジェイドの顔に突き刺さる。
ちょっと確かめてみたかっただけですよと言えば、何が、とルークが冷たく聞き返した。
「私はあなたがいなくても生きていけるんです、ルーク」
「…ジェイド?」
再び先ほどのように、真面目くさって話し始めたジェイドに、ルークは訝しげな視線を向けた。
「今までもそうでしたし、あなたのいなかった二年間もずっとそうでした。これからもきっとそうなのでしょう」
淡々と話すその言葉の中には、一片の嘘もない。ルークはそれを感じ取ったのか、少し困ったような顔をした。
「けれどあなたは私の中に入り込み、認めたくはないのですが、私を支配してしまった。世界から色を奪い取り、より鮮やかな色彩を与えた。私はあなたがいなくても生きていけるでしょう。けれどこの先の私は、おそらくあなたを失えば、いずれ発狂してしまうのでしょうね」
ルークはきょとんとして、自分の手のひらをきつく握り締める男を見つめた。その仕草はまるで何かにすがっているようだ、と彼女は思った。
愛というよりは執着に近い。それでいて真っ直ぐな、歪みきった言葉を、ルークは一つ一つ咀嚼する。
「あなたが誰の花嫁になろうが、最終的には関係ありません。結局あなたが私の目の前に存在しているなら、私はそれだけでいいのだから」
ルークが誰を好きになろうとも愛そうとも、関係ないと。傲慢な言葉をジェイドは紡ぐ。
火傷しそうな程の感情を向けられたルークは、ジェイド、とちいさく名前を呼んだ。
「けれどあなたは、他の誰でもなく私を選んだ。そのことを将来後悔しても、それでは遅いんですよ?」
確認するように重ねれば、ルークの顔色が変わった。
死霊術師という名を持つジェイドといることで、ルークはおそらく要らぬ弾劾すらも受けてしまうに違いない。
それを子供が理解しているかどうかはわからない。ただ、ジェイドにはもう、その手を離すという選択肢が存在しないだけだ。
「後悔なんかするかよ!」
子供らしいまっすぐさで、ルークが叫ぶ。
「俺はジェイドがいい! ジェイドの傍にいたいんだ!」
「本当に?」
「疑うなよ! …俺は、お前が良いんだよ」
「…その言葉、確かに記憶しましたからね」
にっこりとジェイドが微笑むと、ルークはしばらく固まって、それから見事なまでに頬を赤く染め上げた。
「お、まえ…! ほんと性格悪い!」
「後悔しましたか?」
ジェイドの言葉に、ルークは唇を尖らせた。
「…後悔はしてないけど、ムカつく」
「おやおや。さっそく機嫌を損ねてしまいましたか」
ならこれでどうですか。繋いだままの手を引き寄せて、背中に腕を回して。
軽く自分の額に触れた感触に、ルークは完璧に固まった。
「…な」
「な?」
「何した、いま」
「キスですが」
あっさりと答えたジェイドに、ルークは赤い顔で、今度こそ絶句する。
「照れてるんですか?」
からかうような口調にも、何の反応もない。本当に面白い子供だ。
「やれやれ、夫婦になったらもっと凄いこともするんですけどねえ。コレくらいで固まっているようではこの先どうなることやら」
その言葉に、ぎしり、と音がしかねないぎこちなさで、ルークがジェイドの顔を見上げた。
「もっとすごいこと、って」
「――さて。それは後のお楽しみです」
笑いながらジェイドは、ぽかんと間抜け面を曝すルークの唇に、そっと口付けを落とした。
「大事にしてあげますよ、ルーク。…私を待たせた罪は重いですからね?」
→ 後日談
2006/4/23 ジェイドとルーク
「過つは人、でも、すてきな気分」
(メイ・ウエストの考察)