蒼く揺れる水面の上を、無骨と言っていいデザインの大きな船が、白い尾を引いて泳いでいく。
マルクトとシェリダンの間を往復するという定期船、ブランシェット号は、ルークがいなかった二年の間に完成されたばかりのまだ新しい船だ。
ガイが少年のように目をキラキラさせながら機関室にすっ飛んで行ったのを見送ってから、もうどのくらい経つだろうか。狭い船室の窓の外には、日の光で白く輝く海が広がっていた。ミュウが窓にかじりついてその様子を飽きもせずに見つめているのを見て、ルークはため息をつく。
暇で暇で仕方がない。ジェイドに出された宿題でもやろうかと思ったが、そんな気分でもない。そもそも船の中で文字を追うのは、自殺行為に等しい。
酔うのは嫌だし、だからって部屋の中で眠るにも限界がある。ルークがベッドから立ち上がると、ミュウが窓の外から視線を剥がした。
「ご主人様、どこか行くですの?」
「甲板出てくる」
「ミュウも行くですの!」
「いいけど、俺から離れるなよ。この船無駄に入り組んでるから、探すの大変なんだぞ」
わかったですの、と返事をした青い生き物を抱き上げて、ルークは部屋をロックした。ガイも鍵を持って出ているはずだから、困りはしないはずだ。
「さて、と」
外にでられるのはどっちだったっけ、…とりあえず上がればいいか。ルークはそう決めて、まずは手近な階段に向けて一歩踏み出した。
自分が戻ってきてからの一ヶ月、とかく何故か気の休まる暇が無かった、とルークは思う。
まず、アッシュとナタリアの結婚式だ。ルークはそれに、自前の衣装を着ずに、ピオニーの寄越した、女性用の衣装を着て出席せざるを得なかった。
何故かと言う疑問は愚問以外の何物でもない。ルークの見た目がいくら変動が無いように見えるとは言えど、男と女では骨格や体型が違う。平たく言えば、男物の式典用の衣装では、入らなかったのだ。胸が。その事にルークは軽く眩暈を覚えた。以前子爵位を与えられたときの服など論外である。上も下も釦すら留まらずファスナーすらも上げられず、どうしようもなかった。しかしそもそも着られたところで、ルークは二度とバチカルに戻って生活する気はなかった為、身分のすぐばれるあの衣装を着ていくわけには行かなかったが。
貴族の中で暮らすよりは、一般市民の中ででもさっさと自立したいというのがルークの本音だ。それを向こうが知っているからこそ、グランコクマに三人分の招待状が寄越されても、名前が明確に書いてあるのは二人分だけであった。残りの一通はジェイドの分に入れられて、名前の部分だけ白紙だったのだ。偽名で入るなりジェイドの付き添いで来るなり、好きにしろと言う意図であったらしい。
だが、そんな事情のせいで、自然ルークの衣装は他の場所から調達せざるを得なくなった。
そこで世にも楽しそうな顔をしてしゃしゃり出てきたのがピオニーである。ルークの顔は大変に引きつっていたが(以前ティアやジェイドに寄越された衣装を考えれば当然のことであろう)、案外まともな衣装を彼は与えた。そこで問題発言さえ出なければよかったのにと、ルークは思い出してため息をつく。
ピオニーは、自分の与えた衣装を着たルークに、よりによってジェイドの目の前でこうのたまったのだ。
――ルーク、男が女に服をやるのは、それを脱がせたいって意思表示なんだぞ?
一瞬時が凍った。ルークの実感として。
何だそれ! と唖然とするルークの目の前で、ジェイドは微笑んで言ったものだ。
――ルーク、脱ぎなさい。今すぐに。
ルークはとりあえずピオニーとジェイドの両方に、その場にあったものを投げつけて逃走した。相手の身分も地位もすっかり頭から吹っ飛んでいた。
がむしゃらに走りながら、与えられたのが女の子らしいひらひらしたドレスじゃなくて良かったとルークは頭の中で思った。もしそうならいっそ死んでしまいたかったと思うほど、彼女は思いつめていた。
後でよく考えたら、あれはピオニーなりの冗談で、そしてそれにジェイドが乗った、それだけのことなのだろう、ときちんとわかったのだが、そのときのルークは、それどころではなかった。それというのも、自分が女性になってしまったと言うことに、ルークは自分でも信じられないほど大変打撃を受けていた時期だったからだ。
正確に言えば、そのせいで変わった周りの態度に、だろうか。
ジェイドやガイと共に歩いているだけであることないこと、時には口にするのも憚られるほど酷いことまで影で言われているのを、ルークは知っていた。だから自分が女性扱いされるのを、必要以上に嫌がっていた。
そして二人にはおそらく、ルークの気持ちなどお見通しだったのだろう。ルークがそれに気がついたのは、部屋を飛び出してからしばらくして、自分の服装をもう一度良く見直してからだった。
キムラスカ寄りの服装ではあるが、女性のそれではなく男性のそれに近い。おそらく一番変化した部分であろう胸部も、よく見なければそこが膨らんでいるということがわからない程度に巧妙にごまかされていた。これではアッシュと並んでもわからないかもしれない、とそこまで思い至った瞬間に、ルークは彼らに物を投げつけたことを非常に後悔した。
ジェイドはピオニーの発言を窘めただけなのだろう。いささか直接的な台詞であったことは否めまいが、ルークのことを思いやっていたのは間違いない。
結局彼女は後ほど二人に謝りに行ったのだが、逆に謝られて申し訳ない気分になった。
そしてルークは、その衣装でバチカルで行われた結婚式に出席し、…アッシュを大激怒させた。
お前は手紙の一つも寄越さずバチカルにも顔も出さず、という嫌味から始まり(ルークには反撃の材料も何も無かった)、だいたいマルクトの皇帝の後ろに隠れやがって、と怒りのボルテージが上がりきったアッシュがルークの胸ぐらを掴んで叫んだ言葉は、よりによって国王陛下の御前で。
――お前は自分が女になったことを最後まで隠し通すつもりか、この馬鹿が! ファブレ家の血を継ぐものならもっと堂々としてろ!
当然ながらその場には公爵夫妻もいた。それだけでなく、他の多くの貴族も在席していた。あーあーやっちゃいましたねー、というジェイドの言葉が薄っぺらく二人の耳を滑る。
髪まで染めたのに、とルークがため息をついたのも後の祭りで、無駄に響くアッシュの大声のせいで、ルークの帰還は、女性化したと言う事実と共に、国中に広まることになってしまったのだった。
混乱の渦中にいることを嫌ったルークは結局、ろくにバチカルに滞在することも無く、グランコクマに帰ることになってしまった。後ほど彼女の元にマルクト駐在特別使節の任命状が届いたときは、もう苦笑いするしかなかった。
ルークが過去のあまり嬉しくない成り行きを思い出していると、いつの間にか甲板に出るドアの前まで来ていた。
少し重たく作ってあるそれを開くと、ぶわりと潮風がルークの長い髪をはためかせた。
「うあ、凄え風」
ルークが一歩外に出ると、ぴょこんと腕の中からミュウが飛び出た。
「あ、おい!」
「みゅうううう」
「…やっぱり」
あっさりと風に吹っ飛ばされる小さな生き物に呆れながら、ルークはその後を追った。
腕を伸ばして長い耳を引っつかんで持ち上げる。
「痛いですのー」
「柵から転げ落ちそうになっといて、文句言うなっつーの」
あともうちょっとで海に落ちてたぞ、と言えば、それは困るですの、と返されて、ルークはどっと疲れを感じる。
突然くすくすと笑い声が後ろから聞こえてきて、ルークはそちらに振り返った。
金髪の青年が、ルークたちのほうを見ながら面白そうに笑っている。その緑色の瞳と目が合って、にこりと柔らかく微笑まれた。
「…ああ、失礼。あまりに可愛らしかったものだから、つい」
「…はああ?」
ルークは思い切り怪訝そうな顔をして、目の前の青年を見つめた。どこかで見たことがある気がして、記憶の中を掘り返していると、そんなに見つめられると照れますねえと笑われる。
「あ、悪い!」
「いえいえ、あなたほど綺麗な方なら大歓迎ですよ」
ガイが女性に対して使うような甘ったるい言葉をあっさりと口にしてのけ、しかもそれがおかしくない。相当誑してそうだなこいつ、というのが、青年に対するルークの感想だった。
しかし、他人に対してそれが向けられるのは構わないが、自分に向けられるとかなりきついものがある。現在の状況では違うとはいえ、ルークの中では同性に口説かれているに等しい思いだ。
さっさと退散してしまおう、そう思ったルークはミュウを抱えあげて、それからおもむろに隠していたナイフを振り抜いた。
ぎしり、と鋼鉄の刃が悲鳴を上げる。ルークは目の前で薄く笑う青年を、鋭く睨みつけた。
「何のつもりだ?」
青年はその質問をあっさりと無視する。ちらり、と彼の視線が離れた。ルークを通り抜け、その背後に。
「流石ですね、ルーク・フォン・ファブレ」
ルークは振り向き、そして目を見開いた。
気付かぬうちに、目の前にはまた別の男が立っている。もう一度青年の方を見ると、ルークの反応を見て楽しそうに微笑んでいた。
「…お前、らは」
渇いた口の中で、声が干からびる。どおん、と突然船が揺れて、ルークはバランスを崩した。
青年はそれを知っていたかのようにあっさりと体勢を立て直す。ルークはミュウを抱えなおし、二人の青年から一歩距離をとった。
二対一。これなら勝てる、というルークの思考を遮るように、先にルークに話しかけてきたほうの青年が、ルークの方にナイフの切っ先を構えたままで、ふとある方向へ顔を向けた。
「機関室の方ですね」
「んなっ…?!」
「あなたのお友達は無事でしょうかねえ」
わざとらしく言われた台詞に、ルークは、すう、と胸の奥が冷えていくのを感じる。
「…お前のせいか?」
青年の瞳が柔らかく弧を描いた。底冷えしたその温度に、ルークは知らず鳥肌を立てる。
「そうだ、といったら?」
酷く落ち着いた声に苛立ちを感じながら、ルークは低い声で言った。
「…もしガイに何かあったら、俺はお前を許さねえ!」
先に放しかけてきたほうの青年は、苦笑しながら言った。
「別に構いませんが、大人しくついてきてはいただけませんか? レディ」
その言葉に、ルークは本気でムカついた。薄笑いを浮かべる目の前の男を殴り倒してやりたい衝動を何とかこらえる。
「断る! 一体何が目的なんだよ!」
「それはもちろん」
後から現れた方の男が、にっこりと微笑む。
「あなたの誘拐ですよ、ルーク」
ルークの中で何かが切れた音を、ミュウは確かに聞きとめた。
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2006/4/8 ルークとミュウ
「偶然に対する対策はない」
(ボルコウスキーの法則)