ア リ ア (揺 ら し た 天 秤 が 掲 げ た 方 を)
ルークは、紙とペンを、とジェイドに頼んだ。望んだものを手渡され、彼はありがとう、と呟くように言った。
その小さな声すら、身体に官能を引き起こす。ルークは困ったように笑った。
おれの声は特別なんだ。…っていうか、特別にされたんだ。それが、書き出しだった。
今のアッシュの身体は、もともとはおれが使ってた身体を、アッシュの元の身体と混ぜたものだ。
そうやって損傷した部分を補って、アッシュは地上に返された。
でもそのせいでおれの身体の音素は足りなくなった。足りなくなった分を、他のところから補給しなきゃいけない。
おれがタタル渓谷で再生されたのは、あの場所にローレライが第七音素を集めてくれたからだ。
どうやったかは知らない。多分言われてもわからないから、言わなかったんだろうと思う。
だけどそのとき、一つ問題があった。完全同位体が二人いればいずれ起こる、大爆発がそれだ、ってローレライは言ってた。
詳しいことはジェイドに聞けって言われたんだけど。おれの身体を、元のままで再生したら、おれの身体にアッシュが上書きされるんだって。
だから完全同位体じゃなくて、少しずらして再生したんだって。
その時に、おれの声の性質が変わってしまった。
生物にとって、最も心地の良い波長を持つようになった。
だから周りのものに言うことを聞かせることが出来るようになってしまったんだってさ。
ここまでわかるか、とでも言いたげに、ルークはペンを止めた。
ジェイドは成る程、と呟く。
「だからあなたは、ほとんど声を出さなかったんですね」
ルークは首肯した。
ティアの譜歌と似たようなものか、とガイが聞くと、まあそんなものでしょうねえと、ジェイドは答えた。
「しかし、じゃあ何であの化け物が、その声を使えたんだ?」
ルークはペンを動かした。
あれはもともとおれだから。
「…どういうこと?」
ティアが先を促すと、ルークは少し困ったように笑った。
あれはもう一人のおれ、っていうか、ルーク・フォン・ファブレなんだ。
コーラル城でおれが生まれたときに殺された、もう一つのルークの可能性、とでも言えばいいのかな。
ほんとはおれだけじゃなくて、他のいろんな人の未来のかたちなんだけど…ごめん、どう説明していいかわからない。
ともかく、あれはおれが再生されるときにうまれてしまった、というかあらわれてしまった。
世界の法則に逆らって行われた再生だったから、そのせいで時空が歪んで、本来の未来が干渉してきたってローレライは言っていた。
ともかく、そいつは元の世界を取り戻そうとしてたんだ。
おれはそれを止めるために一回はあいつに挑んだんだけど負けて、あげくに声を取られた。
存在のなり代わりが行われかけたんだって、ローレライは言った。声だけで済んだのはある意味幸運だったんだとも。
けど、それがまずかった。おれの声は特別だったから。
おれはミュウに頼んで、日記の続きをつけてもらった。あいつは道具袋の中に居たおかげで助かったんだ。
もしうまく発見されれば、ジェイドたちに情報を渡せると思った。
身体は動かなかったけど、ローレライのおかげで精神体で動けたから、やつの動向を簡単に追えた。ミュウにも何とかおれの声が聞こえたらしくて、助かった。
けど、ガイがやられた日に、うっかり俺も声の余波にやられた。それからミュウがどうなったかはわからない。
ともかく、次におれが動けるようになったときにはもう、赤い魔物はグランコクマの傍まで来てた。
ルークはそこでペンを置いて、ジェイド達のほうを見上げた。
さすがのジェイドも、予想もしなかった展開に戸惑っているらしい。そりゃそうだろうな、とルークは思った。
当事者であるルーク自身にだってまだ良くわかっていないのだから。
「…それじゃ結局、あの化け物はどうなったんだ?」
ガイの問いかけに、ルークは指で自分の心臓の上を示す。
ここにいるよ。唇がそう動いた。
「ここ、って」
「…おれの、なか」
ルークはそう言って微笑んだ。
「…ルークの中に、溶けたの?」
まあそんなところ、と言いたげに、ルークは頷いた。
ガイとティアの表情が目に見えて硬くなり、ルークはあれおれ何かまずいこと言ったっけ、と少し背中に汗をかいた。
ぱしん。頬を叩かれて、ルークは唖然とする。
ティアは、ルークを叩いた手を下ろして冷たく言った。
「どうして私達に言わなかったの。何であんなふうに、逃げたりしたの?」
どれだけ心配したと思ってるの、と彼女の唇が動いた。その目が涙に潤んでいるのを見て、ルークは俯く。ガイが追い討ちをかけるように言った。
「なあ、何で隠すんだ? 俺達のこと、信じられなかったのか?」
ルークは俯いたままかぶりを振った。
じゃあ何で、さらに問われて、ルークはしかし黙ったままぴくりとも動かない。
ジェイドが静かな口調で言った。
「私達がいては足手まといだった。そういうことですか」
ルークは弾かれたように顔を上げた。ちが、とその口が言いかけ、ふとつぐむ。つぐむしかなかった。
「…やれやれ、信用がありませんね」
ジェイドのため息交じりのその口調が、ほんの少し哀しげに聞こえたのを、ルークは気のせいだと思い込んだ。
そして彼はまた俯いて、自分の爪先を見つめた。
「ルーク、顔を上げなさい」
ルークはジェイドの言葉に逆らった。
「ルーク」
もう一度呼ばれても、彼はジェイドを無視し続けた。あからさまにため息を吐かれ、ルークはびくりと身をすくませる。
「…仕方ありませんね」
言葉と同時に、ジェイドの手がルークの目の前に伸びた。咄嗟に一歩後ずさるが、彼の手はそれを許さない。
強引に上を向かされると、表情のない赤い瞳と目が合った。おい、何を、とガイが焦ったように言うのが聞こえる。
そして次の瞬間、ルークはジェイドに噛み付かれた。噛み付かれたのだと、思った。
訳のわからないうちに、ルークの口の中に何かが忍び込む。舌を引きずり出されて絡められて、歯の裏まで舐められて、やっとルークはそれがジェイドの舌だということに気がついた。
「ジェイドッ!」
ガイが怒気を孕ませて叫ぶ。ジェイドはそちらをちらりと見た後、ぺろりとルークの唇を舐めた。
「お仕置きです」
お仕置き。その意味がわからず、ルークはただただ唖然とする。
ジェイドは何事も無かったかのように、淡々と続けた。
「あなたがあらかじめ私達にそれを教えておいてくれれば、あれほど多くのレプリカ達が死ぬことはなかったかもしれません。違いますか」
ルークはそれに、苦しそうに頷いた。
赤い魔物のいたはずの未来には、確実にレプリカはいない。だからまず、レプリカが殺されたのだ、とジェイドは気がついた。
「レプリカも心がある。感情がある。未来があった。それを間接的にとはいえ、奪ったのはあなたです」
ルークもそれはわかっているのだろう。うつむいて、上を向かずにいた。
「何故、言わなかったんです」
「…また、止めると思ったから」
ルークがぼそり、と呟く。くらくらしそうになる頭を何とか理性で押さえつけながら、ジェイドはさらに言い返した。
「だからって、あんな置手紙一つで出て行くことはないでしょう。せめてもう少し説明を入れるなり何なりしてくれたら良かったんです」
「悪かった。ごめん。本当に」
心底後悔しているのだろう、ルークの声のトーンは暗い。
ジェイドはまたため息をつきたくなった。
「私達が、信用できませんか」
ルークはゆるゆるとかぶりを振った。
「では、何故」
「あれは、俺とアッシュしか、対抗できないものだったから」
「ローレライがそう言ったんですか」
ルークは頷いた。
「俺とアッシュが再生する課程で現れたものだから、俺とアッシュにしか対抗できない。…そう言ってた。でも、今のアッシュには無理だとも」
ジェイドは、そういえばアッシュが切りかかったときは弾かれていた、と思い出す。
あの時のアッシュとルークの違いに、目立って思い出せるものは一つしかない。
「…精神体になる必要があったんですか」
ルークは首肯した。
「おれのほうが後で再生されたから、体との結合が不十分だったせいで、心と身体が離れやすかった。だから俺にしか出来なかった」
「…というよりは、あなたのほうが適性が高かったんですね」
ジェイドの訂正に、ルークは頷いた。
「あなた、アッシュにも殴られるのを覚悟しておいた方がいいですよ」
「…わかってる」
ルークが困ったように笑う。彼の考えていることが手に取るようにわかって、ジェイドは大仰にため息をついた。
「わかっていませんね。…最初からそう言ってくれれば、私達だって無駄に命を散らすような真似はしませんが?」
ルークはきょとんとしてジェイドを見上げた。ジェイドは、ガイは一体どういう教育をこの少年にしてきたんだ、と八つ当たりをしたい気分になった。
実に思考回路が短絡的だ。ついでに言えば、情緒面の発達が実に遅れている。
再教育が必要ですかねえ、と頭の中で呟きながら、ジェイドは言った。
「子供はおとなしく大人に頼っていればいいんです。こんなに周囲に大人がいて、誰にも頼らないとは一体どういう了見ですか」
ルークの大きな瞳が限界まで見開かれる。その様子はまるで、ジェイドの言うところの、子供のようだった。
「…は?」
「…旦那。ルークには直球で言わないと通じないと思うぜ」
苦笑交じりにガイが言った。先ほどまで剣呑な殺気をジェイドに送っていたのだが、さすがにあまりの不器用さに呆れてしまったようだ。
「ガイ、もしかして今の、お前には意味わかったのか?」
ガイはマジかよ、と呟き、一瞬呆然として、次いで頭が痛いとばかりにこめかみを押さえる。それに代わって、答えたのはティアだった。
その蒼い瞳には、ジェイドに対する僅かな同情と哀れみと、ルークに対する、呆れを通り越した憐憫が見て取れる。
「…わからないのはあなたくらいのものよ、ルーク」
「へ?」
珍しくと憮然としているジェイドと、呆れと哀れみの視線を向けるガイとティアに挟まれて、ルークはしばらく居心地の悪さを味わっていた。
ルークは必死に俯いて、耐えていた。
目の前におわすのはマルクト皇帝ピオニー九世陛下。彼はニヤニヤと機嫌よさそうに、ルークの格好を見つめている。
ルークの服の前部分には、こう書いてあった。
『放蕩息子、只今参上』
いやあぴったりだろう、と笑顔で言われ、どこがですか! とルークは心の中で反論する。
ガイにこれを手渡されたときには、本当にそれを着て宮殿内を歩いてもいいのかと聞き返したほどだ。
ルークのためではない。キムラスカのためである。
「何だルーク。何か文句言いたそうだな?」
「ルークの行為はキムラスカの行動、ということになってしまいますから、彼が嫌がるのも当然だと思いますよ」
呆れたジェイドがそういえば、ピオニーはつまらなそうに返す。
「ならこっちが良かったか?」
そういって彼が取り出して見せた方に書いてあったのは、『恋人は死霊術師(ネクラマンサー)』。微妙にルビが違う辺りがまた、何ともいえない。
「なおさら良くねーよ、じゃなくて良くないじゃないですか!」
ルークの剣幕にも、ピオニーは動じず、それどころかお前の声きもちいーなーとまで言い出す始末。
ルークがはっと気付いても後の祭りだ。ルークの声の秘密は、おそらく今ので彼には知られただろう。
せっかく耐えていた数分間がパーになった、と彼は歯噛みした。あってないような数分間ではあったけれども。
因みにルークの背後には、微妙に黒いオーラを放ちながら剣と杖と槍を掲げてたりする人(複数)がいたのだが、幸運なことに彼は気付かない。
「だってお前、俺になんも言わずに雲隠れしただろ。お仕置きだお仕置き」
いくら親友だからって、何もそんなとこまでそっくりにならんでもいい! とルークは心の中で叫んだが、後ろにより怖い片割れがいるので黙っておいた。
因みに当然彼はルークの考えていることなどお見通しだ。こいつらの将来は決まったな、とピオニーが二人を見比べながら思ったことなど、ルークは知らない。
「それでだ、ルーク。物は相談なんだが」
「はい?」
やや人間不信気味の目で、それでも律儀に彼は返事をした。そういうところが面白いんだよなあと皇帝陛下は思った。
「お前やっぱりマルクトに来ないか?」
「はあ?」
ルークが、不可解極まりない、という表情になる。ピオニーは楽しそうに続けた。
「いや、お前がいると何かと面白いんだよ、遊び甲斐のあるやつが二人もいるから」
「へーいか?」
後ろに(はあと)がつきそうなほど明るいジェイドの声に、ルークとピオニーは同時に鳥肌を立てた。
「それ以上ふざけた事を仰りますと、今晩のメニューは問答無用でブウサギの丸焼きになりますが?」
にこにこにこにこ、それは物凄い笑顔でジェイドが言った。
「何だよ。お前だってルークが来たら嬉しいだろ?」
にたにたと笑いながらピオニーが返す。人の悪い笑顔でジェイドに対抗している。この人強え、つうかマジ怖えよ、とルークは心の中で感想を漏らした。
さすが親友、と妙なところで感心されているとも知らず、二人はそれは薄ら寒い笑顔で掛け合いを続ける。
「冗談言わないでください。第一彼には彼の居場所があるでしょう」
「だから誘ってんじゃねえか」
「いくらレプリカとはいえ、ルークはキムラスカの王族で爵位も持っていますよ。そう簡単に国を離れられるわけないでしょう」
「ンなもん捨てさせちまえよ。欲しいもんは自分で奪え」
「だから別に私は彼を欲しいなどと言ってないでしょう」
「じゃあ俺が貰ってもいいんだな?」
あれ? 何かまずいほうに話行ってないか? とルークは思った。助けを求めるようにガイとティアの方に視線を向けると、二人ともなにやら暗くて表情が良く見えない。
ルークは物凄く嫌な予感がして、だらだらと冷や汗をかいた。
(アッシュ。いやこの際ユリアでもローレライでもいい。助けてくれ…!)
そんな彼の叫びが、聞こえたのだろうか。
「ルーク?」
ティアが心配そうに、ルークの顔を覗き込んでいた。
「顔色が悪いわよ。まだ調子が良くないんじゃないかしら…?」
調子が良くないのは主にそこの皇帝陛下と大佐殿のせいだ、とはルークは言わなかった。多分彼女にもわかっている。
「大丈夫。…多分今いなくなったらもっと話がややこしくなる気がする」
ルークがどこか諦めたように言うと、ティアはそう、と頷いた。その声に多分に同情が含まれているのは、おそらく気のせいではない。
「なあルーク?」
突然ピオニーに話を振られ、ルークはびくりと身を震わせた。
「お前だって、ジェイドの傍に居たいよな?」
「陛下!」
ルークはジェイドとピオニーを見比べた。珍しく焦燥したジェイドと、楽しそうなピオニーと。
後ろでガイが、やめろ選ぶなルーク! と叫んでいるのが、酷く遠く聞こえた。次いで鈍い打撃音。振り返るのが怖い。
(…そりゃ、傍にいられたらいいけど)
今のルークが「傍にいたい」と言えば、間違いなくジェイドはルークの傍にいてくれるだろう。けれどそれはルークの声のせいであって、ルークのためではない、とルークは思っていた。
ルークの思考回路では、人を自分が好きになると言う部分はきちんと稼動していても、人が自分を好きになる、という部分がほとんど働いていない。
そしてさらにたちの悪いことに、ルーク自身はそれに気がついていないのだ。
彼は皇帝の問いかけに、かぶりを振った。
「俺はバチカルに帰ります。…えと、お世話になりました」
ええーつまらんなーと口を尖らせる皇帝を、しかしジェイドは咎めなかった。
「…今日はもう遅いですから、明日にでもバチカルまでお送りますよ」
彼の申し出に、ルークはちょっと驚いたような表情をして、それから微笑んだ。
「ありがとう、ジェイド」
「…いえ」
眼鏡の奥の赤い瞳は、相変わらず読めない色をしていた。
→ next
2006/3/14 大事なことほど見えなくなる