魔 女 の 福 音

レ チ タ テ ィ ー ヴ ォ (惑 い の 天 使)


 戒厳令の敷かれた夜の街は静かだ。それを遠くに眺めながら、ジェイドは相変わらず警戒を緩めずにいた。
 ルークの日記によれば、化け物が動くのは夜のみだ。朝と昼には、まるで溶けて消えたようにいなくなるのだという。そして次の夜に、また同じ場所に戻る。
 まるで幽霊のようだ、とそれには書いてあった。

 ふと、誰かに呼ばれたような気がして、ジェイドは顔を上げた。
 目の前に、何か白いものが漂っている。
「…ジェイド」
 どうやら自分を呼んだのは、この白いものらしい。しかもこの声は聞き覚えがある。
 はて誰だったか、とそれを思い出す前に、声は続けた。
「ごめん、ジェイド」
「…ルーク?」
 謝罪の言葉で気付くとは、何とも因果なものだ。
 白いものはほんの少し輪郭をはっきりさせた。やはりルークだ。
「ごめん。…俺が力を取られさえしなければ、こんな酷いことにはならなかったのに」
 迂闊だった、とルークがすまなさそうに呟く。
「あいつの声を聞いちゃだめだ、ジェイド。あいつは声で、全てを支配する」
 やはりジェイドの予測は正しかったのだ。しかし何故、ルークが謝る必要があるのか、ジェイドにはわからなかった。
「どういうことですか? 説明を」
「したいのはやまやまだけど、してる時間はなさそうだ!」
 どおん、と響く低い音に、ルークの持つ雰囲気が一気に険しくなる。
「来た…!」
 ジェイドの眼鏡のレンズに、紅いものが映る。
 それの正体を直視して、彼は本能的に寒気を覚えた。
「耳を塞げ!」
 ルークが叫ぶ。はっとしてジェイドはとっさに両耳を押さえた。
 手のひら越しにくぐもった音で、それは聞こえた。
 声。何かを命令する。
 がくん、と身体の中で何かが揺らぐ。まるで封印術をかけられたときのようだ。
 騒ぎに気付いたらしいアッシュが、抜き身の剣を手に走り寄って来た。そして、ジェイドの隣にいるルークを見て目を見開く。
 ジェイドは身振りで、緋色の獣の存在を知らせる。アッシュはちらりとそちらに視線をやり、それから何かを投げつけた。
 どうやらナイフのようなものらしい。彼は投具もできたのか、と半ば感心しながら、ジェイドは用意していた遮音装置をつけた。
 少し遠くから観察する。魔物は人のような形をしてるようだ。何故かその存在を知っているような気がしたが、ジェイドはすぐさま思考を中断する。
 とっさの判断でそこを飛び退けば、次の瞬間ジェイドがいた場所は爆発していた。
 アッシュの赤い髪が舞う。魔物に大上段から切りかかり、どうやら弾き返されたようだ。バックステップしながら反対側に回る彼を視界の隅で認識しながら、ジェイドは詠唱を終えた。
「サンダーブレード」
 雷の刃が魔物に襲い掛かる。だが、しかし、それは信じられないことに、魔物の腕によって弾き返された。ジェイドは歯噛みする。
 剣も譜術も効かない。ベヒーモスのように、ティアの譜歌のような媒介がなければ攻撃が効かないタイプか、それとも――本当に太刀打ちが出来ないのか。
 ジェイドは突然後ろから腕を引かれ、驚いてそちらを睨んだ。
 アッシュの翠の瞳が、向こうだ、とばかりにある方向を示す。そこには、いつの間にか自分の隣から消えていた少年の姿があった。
「ルーク…? 何を」
 何か策があるのだろうか。彼は一瞬だけこちらを振り向くと、早く行け、とばかりに顎をしゃくった。
 ジェイドはその指示に従い、アッシュと共に後退する。ルークはそれを見ずに、真っ直ぐに赤い獣に飛びかかった。
 白い衣装の裾が、翼のように翻る。
 次の瞬間、迸った白い閃光が目を灼いた。
 しばらく視界が戻らず、瞬きを繰り返す。ようやく彼が周囲をまともに認識することができるようになったとき、そこには何も無かった。
 赤い獣も、――少年の姿も。
「…ルーク?」
 ジェイドは辺りを見回して、少年と獣の姿を探した。
 近辺のどこにもいないようだ。それらしい気配も察知できず、彼はアッシュの方に視線を向ける。
 アッシュはしばらく額に手を当てていたが、やがてかぶりを振った。
 繋がらない、ということらしい。ジェイドは遮音装置を外した。しかし聞こえたのは風と、静寂なる夜のざわめきの音だけだ。
「…一体、どこへ?」
 ジェイドは途方に暮れた。しかし、この場でぼうっとしていても出来ることはもうない。
「一度、グランコクマに戻りましょう」
 そして彼らは踵を返した。アッシュは一度だけ後ろを振り返ったが、そこにはやはり何も無かった。


 元はと言えばローレライが悪い。余計なものを自分に持たせて返した。
 そのせいでこんな厄介なことになったのだから、少しは責任を取れ、と言う意味で、ルークは願いを口にした。
 赤い魔物と二人きりで、対峙したい。ローレライはそれを叶えた。
 ルークは赤い獣と正面から向き合うと、そちらに剣の切っ先を向けた。
(悪いけど、俺はまだ死にたくねえよ。レプリカの人たちも、ジェイドもアッシュも陛下も、グランコクマの人たちも、絶対死なせない)
 一筋の光も届かない、それ程深い闇の中。確かに輪郭はあるのに、それがどこかぼやけて見える。
 コーラル城と呼ばれる、しかし自分は知らないもう一つのその場所で、ルークは独り、過去と向き合っていた。
 過去。そして、存在したはずの未来。
 導師イオンが詠んだ、もう一つの未来。聖なる焔の光の、もう一つの行く先。
 その果てがこの赤い魔物であると、ローレライは言った。
 殺してしまった未来、とでも言えばいいのだろうか。自分が生きるために、自分達が生き残るために。
 その事に後悔はない。あってたまるか、とルークは思う。
 何故ならそこにはルークもアッシュもいない。イオンもフローリアンも、いなかった。
 生まれたことを否定などさせたくない。その課程がどうであろうと、自分達は生きて、心を持った。
 否定などさせるものか。
 今のルークはだからきっと、フォミクリーの開発者であるジェイドにすらそれを許さない。
(俺はここにいる。…ここに、いるんだ)
 だから今更その未来を返せと言われたって、それは出来ない相談だ。
 ルークは腕を広げる。赤い魔物は、戸惑ったように、翠の瞳でこちらを見据えていた。
(この場所はもう譲れない。…だからせめて、俺の中で眠ってくれ)
 魔物の姿はだんだんと小さくなり、やがて赤い髪の幼子の姿になる。
 ルークはしゃがみこんで、その子供と視線を合わせた。硝子玉のような翠の瞳の焦点が合う。
「…おれは、いらない?」
 幼子に言われ、ルークは黙った。黙って、首を縦に振る。
(…俺が殺したも同然の未来だ。だから、恨むなら俺だけにしてくれ)
「…そうか。じゃあ、仕方ないな」
 困ったように幼子が笑った。その笑顔は、自分の笑顔とそっくりだ。
 幼子がルークの頬を撫でた。小さくて柔らかな感触を感じて、ルークの涙腺は破壊されそうになる。
「仕方ないから、ここで我慢してやる」
 溶けて消える、震える声。ルークは耐え切れず、幼子を抱きしめた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
 白く光が視界を塗りつぶす。溶けて、消える。
 声にならない謝罪は、行き場をなくした。
(ごめんなさい、ごめんなさい――)

「ごめんなさい、ルーク」


 誰かを呼んだはずなのに、逆に誰かに呼ばれたような、そんな気がして、ルークは白い光の中で目を覚ました。
 途端目に映った、見覚えのある顔に、ゆるりと彼は微笑んでみせる。
「ルーク」
 もう一度名を呼ばれ、ルークは喉を指差した。そして軽く横に首を振る。
 酷く無表情なジェイドが、じっとルークの動きを観察していた。
「…声が、出せないんですか」
 ルークは首肯した。そして上体を起こし、ベッドに腰掛ける。
 辺りを見渡すと、白いベッドの並ぶ病室のようだった。いくつかには人がいるらしい。
 ジェイドがルークの聞きたいことを察したように説明をした。
「グランコクマです。本当はベルケンドなり、設備の整った場所に搬送したかったんですが、それどころじゃなかったので」
 声を出さずに、口の動きだけでルークは尋ねる。アッシュとガイとティアは?
 ジェイドは少し驚いたように目を瞠った。
「アッシュは先ほどバチカルに帰りましたが、残りの二人はここにいますよ。…二人が止められたことも、知ってたんですか?」
 ルークは悔しそうに頷いた。
 二人とも、俺が声を、奪われたせいでやられたから。
「声を?」
 ルークは、そうだ、と言わんばかりに頷いた。
 あの魔物の声は、おれのせいなんだ。ルークはゆっくり、そう唇を動かした。
「…どういうことですか?」
 ルークは答えずに、ベッドから身体を下ろした。すぐ隣のティアのベッドに向かい、悔しそうに下唇をかむ。
 やがて彼は唇を開いた。

「ティア、もういいよ」

 それは確かにルークの声だったはずだ。しかし、何故か酷く心地がいい。脳髄をしびれさせるような、そんな声に聞こえて、ぞくり、とジェイドの身体に何かが駆け上がる。
 次の瞬間、ルークの目の前に横たわっていたはずのティアが、むくりと身体を起こした。そして驚いたようにルークを見つめている。
「ルーク、どうして…」
 ルークはティアに向かって微笑んだ。良かった、と小さく呟く。
 そして彼は次に、ガイのベッドに向かった。ルークが同じように囁くと、ガイも途惑い混じりにその身体を動かした。
「…説明を、していただけますか?」
 ジェイドの言葉に、ルークはこくりと頷いた。


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2006/3/5 殺された未来

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