花 の 器 と 翠 の 小 鳥

良くなる前になお悪くなる



 目覚めたルークはまず、一番近くにいたガイの熱い抱擁を受けた。
「いたいいたいいたいみしみしゆってるってはなせちょっとガイ頼むから」
 抱きしめる腕は強すぎて、呼吸すらおぼつかない。ルークはガイの腹部を殴ったが、しかし彼はまるで石にでもなってしまったかのように、びくりとも動かない。
 まずい。非常にまずい。このままではせっかく戻ってきたのに、すぐに窒息して第七音譜帯に逆戻りだ! ルークは危機感を覚えて、ガイのすぐ真後ろにいたジェイドに痛みで潤んだ視線を向けた。
 ジェイドの赤い瞳は無感情に、とても無感情にガイに向けられた。ガン、と横からすごい力が加わり、ガイの華奢とはとても言いがたい体躯が吹っ飛ぶ。
 マルクト軍支給のブーツの裏側を見たルークは一瞬あっけに取られたが、その後すぐに苦笑いを浮かべた。
「ありがとう。助かった…けど、大丈夫かな、ガイ」
「大丈夫ですよ。たとえ断崖から突き落としても死にませんから、多分」
 にっこり、微笑んだジェイドの瞳は、しかし全く笑っていない。向こう側でナタリアがガイにヒールを唱えようとして、アッシュに止められていた。
「ガイがここまで理性を失うとは計算外でした。落ち着くまでしばらく放っておきましょう」
 心配そうなナタリアに、ジェイドがそう言い含めている。
 ガイに哀れみの視線を向けていたルークは、今度は後頭部に衝撃を感じた。頭に何かがへばりついている。
「ご主人様〜!」
「ミュウ?」
 ルークは後頭部に張り付いた生き物をべりっと剥がすと、自分の目の前に持ってきた。
 見慣れた青い動物が、きらきらした目でルークを見上げている。
「また会えたですの! 嬉しいですの!」
「俺も嬉しいよ。でもお前、チーグルの森に帰ったんじゃなかったのか」
「ご主人様が帰ってきた気がして、長老に言ったら来させてくれたですの!」
「そっか。ありがとな、ミュウ」
 ルークはそういって、ミュウを抱き上げた。ミュウは嬉しそうに戻ってきた主人に抱かれていたが、ふと不思議そうな顔をした。
「みゅ?」
「…どうした?」
 ミュウが、不思議そうな声で言った。
「ご主人様、ティアさんと同じ胸があるですの?」
「は?」
 ルークは、べり、ともう一度青い生物を引き剥がした。そして自分の身体を見下ろす。
 彼が纏っていたのは、ゆったりとした白いローブのようなものだった。イオンが着ていたそれと少し似ているようでもある。その胸部に、上下に動くふくらみを見て取って、ルークは固まった。
「どうしたの? ルーク」
 動かなくなったルークを不審そうに見たティアも、同じように凍りつき、それから恐る恐るそのかたちのよい唇を開いた。
「…それ、本物なの?」
 言われるなりぐわしっと胸を掴まれ(触れるというよりは、まさしく掴むと表現するのが適切だった)、ルークは石化する。普段の彼女なら考えられない暴挙だが、それだけ動転していたということであろうか。
 自らの手のひらに確かな存在感を感じ、今度こそティアは多大なショックのせいで思考停止した。その一部始終をすべて見ていたアニスは、その大きな瞳を、さらに大きく見開いた。
「…ルーク、女の子になっちゃった?!」
「…は?!」
「なんですって?」
 アッシュとナタリアの顔が引き攣る。ジェイドだけがただ一人、冷静にその眼鏡を押し上げた。
「…成る程。ガイがルークに抱きついて固まったのは、こういう訳だったんですねえ」
 悪いことをしましたかねえ、と平然と呟くジェイドを、信じられないものを見るような目でアニスが見た。
「大佐、何でそんなに冷静なんですか〜?!」
 ジェイドはいつものうさんくさい笑顔を浮かべた。
「嫌ですねえ。これでも物凄くびっくりしてますよ」
「嘘だな」
「嘘ね」
「嘘ですわ」
「ぜってー嘘だ」
「うっそだあ」
「うそですの〜」
「…流石にそこまで言われたら、いくら私でも傷つきますよ?」
 ジェイドがわざとらしく傷ついたようなポーズをとる。
 はあ、と当事者のルークがため息をついた。その中には明らかに何らかの諦めが見て取れて、ティアは密かに同情する。
 ルークは肩を落としたまま、何かを探すように辺りを見回し、ある一点で視線を止める。
「…ちょっと俺向こういってくる」
「え? どうして?」
「下」
 端的に答えて、ルークは立ち上がった。足元まである白い衣装が、ゆらりと揺れる。よく見れば、やや体の線が細くなっているというのもきちんとわかる。
「一緒に確かめてあげましょうか?」
 ジェイドの申し出に、ルークはいらない、と即答した。
 ルークが近くの影に隠れた後で、じっとりとした視線でアニスは、残念ですねえ、と呟くジェイドを見つめた。
 何が怖いって、残念だというその台詞が、あながち冗談に聞こえないのが、本気で怖い。
「大佐、流石にルークに手を出したら犯罪ですよぅ」
 顔を引き攣らせながら、何とか冗談にしてみせようとアニスが挑戦する。
「大丈夫です、ガイが手を出すよりは犯罪じみていませんから」
 アニスの小さな願いを粉砕し、ジェイドはアッシュの方に向き直った。たちの悪い笑顔に、アッシュは背筋が寒くなるのを必死で隠した。
「さて、それにしてもどうしましょうね、アッシュ?」
「…そこで何故俺に振る」
「それはやっぱり、唯一の血縁があなただからですかねえ」
 血縁と言っていいのかどうかわからないが、ルークがファブレ家の血を継いでいるのは事実なので、アッシュは、それがどうした、と答えた。
「どうしたも何も、ルークが帰った後が大変ですよ。何せ、女性になってしまったんですからねえ」
「…だから、何が言いたい」
 にこにこにこにこ、凄まじい笑顔で、ジェイドが微笑む。
「うちの陛下も、相当ルークが気に入ってましてねえ。うっかり女性になってしまったといったら、いったいどうなることやら」
 マルクトとキムラスカの友好のために、是非にと求められそうですねえ、あれで美人ですからね。そんなジェイドの言葉に、アッシュは嫌そうに顔をゆがめた。
「…あいつは元男だぞ」
「今が女だったら、あの人は気にしませんよ」
 アッシュが、今度こそ完全に凍りついた。ナタリアが呼んでも揺すぶっても現世に戻ってこない。
「…本気で遊んでるよこのひと」
 すっかり呆れたアニスに、ジェイドは飄々とのたまった。
「あんなにからかいがいのあるひとで、遊ばない手はありませんからねえ」
 アニスは、脳が攪拌されているのではないかと思えるほど婚約者に揺さぶられているアッシュを、いっそ哀れに思った。
 しばらくして、自分のいない間にそんな会話がなされているとも知らず、やや顔を蒼白にしたルークが戻ってきた。
「どうだった?」
 その顔を見れば、大体結果はわかりそうなものだが、あえて一縷の望みをかけて、ティアは聞いてみる。
「…無かった」
「…そう…」
 もうどう答えていいのかわからず、ティアはルークから目を逸らした。
「そうですか。それは残念」
 ジェイドの言葉に、ルークはほとんど泣きそうな顔になる。
「俺、どうしちゃったんだろう」
「私にもわかりかねますねえ。とりあえずまずはベルケンドに行って検査してみましょう。すべてはそれからです」
 にっこりと、妙に機嫌のよさそうなジェイドの科白に、嫌な予感を覚えながらもルークは頷いたのだった。


 ノエルとの再会の喜びを分かち合うのもそこそこに、一行はベルケンドへと向かった。以前の戦いのときから世話になっていたシュウ医師を訪ねるためだ。
 朝も早くからたたき起こされた彼はルークの帰還にかなり驚いていたが、それでも快く検査を引き受けてくれた。
 半日以上かかった検査の結果、ルークの身体には、大きな異常は特に無かった。たった一つを除いては。
「身体の構成が、女性のものになっています」
 信じられない――が、ルークが帰ってきたことが一番信じられない(つまり何が起こってももう不思議ではないと思っている)シュウが、それでもやや平素よりは動揺した様子で、それでも冷静に下した結論はこうだった。
「おそらく、女性のほうが身体の構造が安定しているからでしょうね。今のあなたの身体には、第七音素以外の音素も含まれています。現在地上にある第七音素は、以前ほどそう多くはないですから、それを補うためと言うのもあるのでしょう。周囲にあった草花が同時に枯死していったのも、そういった理由からだと思います」
 ルークはそれを聞いて、目を伏せた。付き添ってきたジェイドが、では日常生活には支障はないのですね、と確認すると、医師は頷いた。
「ええ、大丈夫です。音素の乖離なども見られませんし、血中音素も安定しています。安心して人並みの生活を送れますよ」
 少なくとももう死に怯える必要はないのだ。そう言われて、やっとルークは心から安心した表情を浮かべたのだった。

 検査結果を伝えると、心配そうな顔で待っていた仲間達は、ほうと安堵の吐息を漏らした。アッシュでさえもいつもの険が薄らいでいるのを、ルークの後ろにいたジェイドは見逃さなかった。
「良かったですわね、ルーク」
「ああ。…良かった、んだろうな、多分。うん、良かった」
「どうしたの〜? もっと喜べばいいじゃん」
 状況は随分と良くなったはずなのに、浮かない顔をしたままのルークに、アニスが怪訝そうな表情を浮かべる。
「まさかまたなんか隠してるんじゃないよね?」
 酷い前科があるだけに信用がない。心配そうな疑いの視線を向けられて、ルークは苦笑いした。
「隠し事はないんだけど」
「ほんとにぃ?」
「本当ですよ」
 ジェイドのフォローに、しかしガイが疑いの目を向けた。
「…あんたも前、ルークの嘘に乗ってたじゃないか」
 以前、ルークの身体の真実について、ジェイドとティアには言ったのに(というか実際は見破られたのだが)、一番近しいと自負していたはずの自分が教えてもらえなかったことを、彼はかなり根に持っているらしい。
 ジェイドは、おやおや信用が有りませんねえ、と相変わらず嘘くさい笑顔で言った。それが信用のない理由じゃないだろうかなどととルークは思うのだが、口には出さない。さすがにそこまでマゾヒストではないので。
「流石に私もこんなところで嘘はつきませんよ。これ以上いらぬ恨みも買いたくないですし」
 ジェイドは肩をすくめてみせると、ねえ? とルークに同意を求めた。ルークはこくこくと頷く。
「…ルーク、本当に本当だろうな?」
 あくまで徹底的に疑ってかかるガイに、ルークは困ったような笑顔を浮かべた。
「ほんとだって。今度ばっかはほんとにほんと。信じてくれよ」
「じゃあどうしてご主人様は嬉しくなさそうなんですの?」
 ミュウに聞かれて、ルークははあ、とため息をついた。
「…流石にいきなり女の子になっちまって、素直に嬉しいとは思えねーよ…」
「…あー」
 そういえばそんなこともあったな、と言ったガイに、ルークは白い眼を向けた。ガイは肩をすくめて苦笑う。
「外見にあんまり変動がないから忘れてた」
「…それは暗に俺を女顔だと言ってるのか?」
「いや、今女だし」
 茶化すようなガイの言葉に、ルークは暗い笑みを浮かべた。
「…いいか、ガイ」
 ルークは人差し指を真っ直ぐ、ある人物に向けた。お行儀が悪いですねえとジェイドが呟いたのは無視だ。
 指差された人物――アッシュは、周囲の注目が突然自分に集まり、少し戸惑ったようなそぶりを見せた。
 どういうつもりだお前! という彼の言葉も無視し、ルークはそれは恐ろしい台詞を吐いた。
「俺が女顔だってことは、俺と同じ顔のアッシュも、女顔だっていうことになるんだぞ…?」
 一瞬時が止まった。唯一無事だったジェイドは、おやおや面白いことになってきました、と言わんばかりに、傍観者モードに入ってしまっている。
 最初に立ち直ったアニスは顔を引き攣らせながら、固まっている他のメンバーを窺う。次に復活したナタリアはナタリアで、確かに綺麗な顔立ちはしていらっしゃいますけど、と首をかしげた。
「るるるるルーク! おま、なんて恐ろしいことを…!」
 心なしか顔を青くしたガイが、呂律のまわらない舌で、それでも何とかルークの言葉を否定しようと努力した。アッシュもそのおかげで我に返る。
「そうだ屑! 誰が女顔だ誰が! 女顔はお前一人で沢山だ!」
「アッシュ、今さりげなくとても自虐的なこと言いましたねえ。同じ顔なのに」
 ジェイドの言葉を黙殺し、アッシュはルークに噛み付いた。
「大体お前がそんなややっこしい身体で帰ってくるから悪いんだろうが!」
 唐突に鈍い音がした。ルークの目前からアッシュが消える。慌てて彼が視線を落とすと、真紅の髪が地面に沈んでいた。
 ルークは恐怖のために、いやにゆっくりと視線を上げた。そこにははたして、恐ろしく無表情になったティアが愛用の杖を構えて立っていた。アイスブルーの綺麗な瞳が今は妙に据わっていて、ルークは悪寒を覚える。
「言いすぎよ、アッシュ。ルークだって望んで女の子になったわけじゃないんだから」
「…いや確かにそうなんだけど、いくらなんでもそこまでしなくても」
 いいのに、という言葉は、ティアの視線に阻まれる。
 怯えるルークの肩をさりげなく抱いて(ガイの鋭い視線が飛んでルークはふたたび寒気を覚えた)、ジェイドが言った。
「それにしてもルーク、どうします? バチカルに…ファブレ公爵家に、戻りますか?」
「え?」
「流石に女になったとも言い辛いでしょう。王家が、いえ、キムラスカ中が混乱しますよ、そんなことになったら」
「あ…」
 ルークが翠色の瞳を困惑に揺らす。
 ガイは、よく言った旦那! といわんばかりに、小さくガッツポーズを作った。勿論ルークには見えなかったが。
「それならルーク、グランコクマに来るか? 俺の屋敷に来いよ」
「あ〜っ、ガイ、抜け駆けはずるい! ねえルーク、ダアトは? フローリアンもルークに会いたがってたし、キムラスカやマルクトに政略結婚させられることも多分ないし」
「それならいっそユリアシティはどうかしら? あそこなら立場的にも中立だし、華やかさはなくてもかえって住みやすいと思うわ」
 いちどきに迫られ、思わずルークはジェイドの軍服の裾を掴んだ。
「ほら、そんなに一気に迫るから、ルークが怯えてるじゃないですか」
 外見はこれですけど、精神年齢は十歳以下なんですからね、と窘める。ルークはそれを聞いて少しむくれた。
「十歳言うな」
「おや、本当のことじゃありませんか」
 そこでようやく復活してきたらしいアッシュが、ぎろりと二人を睨みつけた。
「お前らな…!」
「おやアッシュ、もう復活したんですか」
 少し残念そうなジェイドの言葉に、アッシュは額に血管を浮かせた。
「おい屑! お前が多少女になって帰ってきたくらいで、キムラスカ王家が揺らぐわけがないだろう!」
 いや、そんなことはないと思うけど――そんなルークの言葉は、アッシュの気迫にかき消された。
「そうですわ、ルーク。それに、おじさまもおばさまも、とてもあなたのことを心配していましてよ? ここでお帰りにならない方が、むしろ酷いと思いますわ」
 ナタリアの追い討ちに、ルークの良心がぐらぐらと揺さぶられる。
「う…それも、そっか」
 やっぱり帰らないわけには行かないよなあ、とルークが呟く。
「そうですか。…やはり一度は顔を見せた方がいいでしょうねえ」
 言いだしっぺのはずのジェイドもそれに賛同する。この裏切り者、と言わんばかりのガイの視線を、彼は涼しい顔で受け流した。
「じゃあ、とりあえずまずはバチカルにいくってことで、決定な」
 ルークは、これ以上の厄介ごとは勘弁、とばかりに、話をまとめる方向に入った。
 その際に向けられたガイの妙に残念そうな表情を、珍しくもまともに防衛本能が働いたルークは、華麗にスルーしたのだった。


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2006/3/7 ジェイドとルーク
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