私を呼ぶ声
夜のグランコクマには、ただ静かな水音だけが響く。明後日には、キムラスカの首都バチカルで、アッシュの帰還記念式典が開かれていることだろう。
何だかんだでばたばたと忙しく、彼が帰還してから一月近くたってからの式典になってしまったが、それで周囲の人間の歓びが減るわけでもない。
ジェイドも本当は招待を受けていたのだが、それを断った。行こうと思えば行けないこともなかったが、それ以上に気がかりなことがあったのだ。
部下から渡されたファイルに何度も目を通し、何度も結果を確認して、彼はマルクトに残ることに決めた。
これはまだ誰にも言うべきではない秘密だと思った。
下手な期待を持つのは怖かったし、周囲に持たせることで、残酷な肩透かしを喰らわせるのも嫌だった。
もしかしたら、周囲に言うことで、それがただの夢になることが、怖かっただけのかもしれないが。
最近、タタル渓谷のあたりで、異常なまでに高濃度のセブンスフォニムが計測されることがたびたびあった。
実際にその様子を確かめに行ったジェイドは、その周囲のあまりの変わりように愕然とした。
セレニアの花が、まるで渓谷を埋め尽くすかのように、あちらこちらで咲き誇っていたのだ。
――まるで、その場所にいる何かを、祝福するかのようだ、と。ジェイドはそう思って、そして、それに気がついた。
それは一つの旋律だった。
まるで何かが歌っているようだと、ジェイドは思った。
草の葉の擦れ合う音が、風の音が、その歌を奏でていた。
ジェイドはその旋律の名を知っていた。知り合いに、それを唯一すべて歌うことの出来る者がいたからだ。
大譜歌。この世で、最も美しい旋律。
その近くにある、小さな集落の住民に、それとなく聞いてみた。
異変が起こり始めたのはいつだったのか。
答えは、半ば予想できていたもので、そして、ジェイドの望んだ答えでもあった。
一月前。
つまり、アッシュの帰還と、ほぼ同時だった。
不意に、誰かに呼ばれたような気がして、ジェイドは開け放った窓の外を見た。
白い月が柔らかな光を世界に落としている。いつもと変わらない、グランコクマの夜のはずだった。
ふわり、と風に乗って、何か光るものが部屋の中に入ってくる。
蛍だろうか――彼は一瞬そう思って、それからすぐに違うと気がついた。グランコクマに蛍はいない。
ジェイドは、軍服のコートに手をかけた。行かなければ、ならないのだ。
「全く、人使いの荒い」
年寄りは労わって欲しいものです、と、憎まれ口を叩くその唇は、しかし隠せない笑みに歪んでいた。
誰もいなくなった部屋に残された、ひとひらの淡い花びらが、静かに月の光を浴びている。
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2006/3/5 ジェイドとルーク