空虚の墓石
「…まさか俺の分の墓まであるとは思わなかった」
ふ、と緋色の髪の青年が笑う。纏う衣装は上質のそれで、一目見ただけで上流階級の人間だとわかるような仕立てのものだ。
そしてまたそれを纏う青年も、その衣装に着られてはいない。
ナタリアはほとんど夢を見ているような気持ちで、アッシュの腕に己の腕を絡めた。
「…あなたにまた会えるなんて、思ってもいませんでしたわ」
「俺は一度死んだからな」
ナタリアは、その時のことを思い出して、きゅっと身を固めた。あの時の寒気が、未だに体の中に残っているようだった。
「ナタリア」
アッシュは優しく、ナタリアの腕を引き剥がす。そして、その翠の瞳で、真っ直ぐにナタリアを見つめた。
「アッシュ…」
「ナタリア。まだ、あの時の約束は有効か?」
ナタリアは軽く目を見開いた。今更、それを問うのか。否やのあろう筈もない。
彼女はふうわりと微笑んで見せた。
「…もしあなたが言い出してくださらなければ、もう一度わたくしの方からお願いするところでしたわ」
世界を救った英雄であるルーク・フォン・ファブレの帰還は、キムラスカの国民に大いに歓迎された。当の英雄ルーク――アッシュは、それをどこか苦々しく思いながら、しかしそれを表情には出さずに、王城の広い廊下を悠然と歩んでいた。
七年の間、捨ててきた名前と場所を、もう一度手に入れるには、彼にとって多大な勇気が必要なことだった。
一度手放したものは、もう一度取り戻したところで、既にそれは同じものではない。それでも戻る必要があったのは、ひとえに今、隣で同じように式典に向かっている女性のためだった。
今現在、その名を名乗るに相応しいはずのルークは、この場にはいない。その間にその居場所を掠め取るようなことをしなければならないのは、アッシュにとっては非常に屈辱的なことだった。それに、ずっとアッシュと呼ばれ、自分でもそう名乗っていたのに、今更ルークに戻れといわれて、はいそうですかと戻れるわけもない。
アッシュは、王城の廊下を、出口の方へと向かいながら、それでも表面上は穏やかに、その場を通り過ぎてみせた。
現在彼らがが向かっているのは、アッシュとルークの墓がある場所だった。
帰還の式典のときに、どうしてもやりたいことがあると、アッシュが(と言っても、主な功労者はナタリアだが)、国王に頼み込んで、予定に組み込んでもらった行事だ。 アッシュの表情が、緊張にか、少し厳しくなる。ふと腕に温かさを感じた。彼が見下ろすと、ナタリアが、にっこりと微笑んでいた。
「大丈夫です。私がいますわ」
「…そうだな」
バチカルの空は高く蒼い。その眩しさに、アッシュは目を細めた。
二つの石碑が、同じように日の光を浴びている。アッシュ、それと、もう一人の分の、中身のない墓だ。
この式典が終わればその役目を終え、彫られる文字は挽歌ではなく、過去の歴史へと変わることになっている。
アッシュはその片方の前で、片膝をついて、ファブレ家の家紋の彫られた剣を掲げた。
張りのある声が、静かな墓所に響く。
「聖なる焔は燃え尽きて、片方は光となって遥か天へと飛び去り、もう片方は灰となって現世に残った」
その場の、貴族やその他の群集が、ざわめく。アッシュはそれを気にせずに続けた。
「たとえその姿が失われようと、俺は俺のレプリカを――もう一人のルーク・フォン・ファブレを、忘れることはない。光に変わり、遥か空でローレライの眷属になったルークを忘れぬために、俺はこの名を再び捨てる」
ざわめきは大きくなり、周囲に動揺が広がっていく。静かに、というナタリアの声が、透明な空に吸い込まれた。
「俺は灰だ――聖なる炎が、現世に遺した灰だ。だから俺はこれから、アッシュと名乗ろう」
高い金属の音を立てて、アッシュ、と書かれた方の地面に、剣が突き立てられる。
ナタリアが、つい、とアッシュの隣に立った。もう一つの、石碑に向かって、語りかける。
「不死鳥は何度でも、灰の中より蘇ります。――灰は滅びの象徴ではなく、再生の象徴。アッシュが死を乗り越えて、再び現世に舞い戻ったように、もう一つの焔も、いずれこの世に戻る日が来るでしょう。私達はその日を、いつまでも待っています」
そして二人は視線を合わせて、それから群集の方に向き直った。ずっと後ろの方で、キムラスカ国王インゴベルトや、ファブレ公爵夫妻が、満足そうな笑みをたたえているのを、確かに見た。
「私達は今日、この時を以って、アッシュ・フォン・ファブレと、ナタリア・ルツ・キムラスカ=ランバルディアの婚約を発表するものである」
しばらくの沈黙の後、割れるようにその場に喜びの声が溢れる。
歓声に包まれ、祝福を受けながら、二人は抱擁を交わした。
「どんな婚約発表だ、ありゃあ」
ガイの呆れたような言葉に、アッシュが剣呑な視線を向けた。
「何か文句あるか」
「よく国王陛下のお許しが出たな」
「あ、それはあたしも思った」
ガイとアニスの心底呆れたような視線に、アッシュはふいと目を逸らす。
「…仕方ないだろう。ルークをバチカルに受け入れる準備をして、かつ、俺がナタリアと結婚するにはああするしかなかったんだ」
「ルークがバチカルに戻ると思ってんのかお前は。て言うか俺が戻すと思ってるのか?」
ガイは挑戦的な笑顔をアッシュに向けた。
ぶちっ、と、何かが切れた音が、アニスの耳には確かに聞こえた気がした。
妙に目の据わったアッシュが、ガイの非友好的な笑顔を睨みつける。
「…ガイラルディア・ガラン・ガルディオス、おまえもう一度その台詞を言ってみろ」
「何度でも言ってやるさ。ルークが帰ってきたら俺はもう遠慮しない。あいつを意地でグランコクマに引き止める」
二人の間で、静かな戦いがはじまろうとしていた。
「あいつがそれを望むとは限らんだろうが」
「望ませてやるさ。それだけの自信はあるぜ」
「馬鹿を言え。あいつだって一応こっちの王族としての自覚はあるはずだ、必ず戻ってくる」
「さてどうだかな。さすがに新婚夫婦の邪魔をしたいと思うほど、あいつだってばかじゃないと思うぜ」
ガイの貼り付けたような笑顔と、アッシュの鬼のような気迫の生み出す低気圧帯に、パーティの参加者による人混みの、そこだけが人口密度が遥かに低くなる。
今にも抜刀しそうな二人の間に割って入ったのは、ティアだった。
「二人ともいいかげんにしなさい。こんなところであなたたちが喧嘩なんかして、周りがただで済むと思ってるの?」
ティアの尤もな言葉に、二人は双方抜きかけていた剣を引いた。
「ルークの行く先は、ルークが決めることだわ。周りがどうこう言う筋合いじゃないでしょう」
はあ、とガイがため息をついた。
「それもそうか。…すまない、ティア」
「…ふん」
ガイの鋭い視線がアッシュに飛んだが、彼はそれを完全に黙殺した。ティアはため息をついた。
「…あなたたち、どうしてそんなに仲が悪いのかしらね」
「そんなの単純だろ」
ガイはにこり、と微笑んで見せた。
「単にそりが合わないんだ。この無愛想野郎とは」
「外面いいくせして腹の中真っ黒の二重人格には言われたくないな」
再び冷戦が始まり、二人の間で火花が散った。
助けを求めようにも、アニスはとっくの昔に逃げてしまっているし、ナタリアはさきほどから他の貴族に捕まっている。ジェイドはそもそも、式典に来ていない。
ティアはため息をついた。
あと三十秒以内に収まらなければ、殴ってでも止めた方がいいかもしれない。
彼女は密かに、先の冒険時代から愛用している、すっかり手に馴染んだ杖を握り締めた。
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