夜明けのオクターブ
暖かな光の中で、アッシュは目を覚ました。
身体が不思議な浮遊感に包まれている。それは不快ではなく、むしろ心地よいと言ってよかった。
自分は死んだはずなのにどうして体があるのだろう、そう思って動かした指は、確かに光の中で浮いている。
やがてアッシュは気がついた。自分の体の中に、もう一つ別の情報が入ってきている。
自分のレプリカの記憶が、頭の中に入ってきているのだ――そう気がついたのは、己が師と呼んだ男の妹の映像が現れてからだった。
けれどその感覚はするすると、まるで雪が溶け落ちるように、追えば追うほど消えていく。混乱するアッシュの頭の中に、不意に声が響いた。
「生きているか、アッシュ」
それは確かにもう一人のアッシュ――ルークの声だった。
もう一人の自分、そう思ったその思考を、その声は遮った。
「俺はおまえじゃない、アッシュ」
そうだろう? どこか笑みを含んだような声が、フォンスロットを通じた会話のように、アッシュの頭に響いた。けれどあたりを見渡しても、その姿すら見えない。
「――お前はどこにいるんだ」
いくら探してみても、ひたすら光しかなかった。アッシュの周囲で動いているのは、アッシュただ一人だけだった。
声は淡々と答える。
「今はどこにもいない」
「…おい、お前、まさか」
嫌な予感がして、アッシュはルークに呼びかけた。その間にもさらさらと、まるで細かな砂が指の隙間から零れ落ちるように、ルークの記憶が消えていく。
消えた記憶と一緒に、ルークまでもこのままいなくなってしまうのではないか。そんな考えがふっと、アッシュの頭の中に浮かんだ。
「待て、消えるんじゃない!」
それは彼に叫んだのか、彼の記憶に叫んだのか。アッシュにはわからなかったが、ここで引き止めなければルークは消えてしまう、そんな気がした。
「お前は俺じゃなくて、俺はお前じゃないんだろう! ならば何故お前が消える、お前が消える必要などない! お前の記憶を俺に渡すつもりか?! お前が記憶しか残らないなら、俺は――」
その先に続けるべき言葉が見つからず、アッシュは押し黙った。どうするというのだ。ルークの分の記憶をも抱いて、生きていくとでも言うつもりだったのか。それともそんなもの欲しくもないと?
不思議に静かな声が、アッシュの言葉に答えた。
「俺の記憶は俺だけのもの。俺が俺だっていう、たった一つの証明」
当たり前の事実を確認するように、ただ淡々と、その声は続けた。
「だから、お前には渡さないよ、アッシュ」
まるでそれが死ぬ間際に残す言葉のように聞こえて、アッシュは自分の中に得体の知れない感情が渦巻くのを感じた。
怒りに似ている。それでいて、悲しみにも似ている。耐え切れず、アッシュは彼の名前を呼ぼうとして、一瞬躊躇った。ルーク。ルーク・フォン・ファブレ。たったそれだけの、短い音節なのに。
その迷いを見透かしたように、アッシュが俺の名前を呼べないのは仕方ないよ、だってそれはお前のものでもあったんだから、と、自分と同じであるはずの声が言う。
けれどアッシュが聞きたいのはそんなことではなかった。名前など今更どうだっていい。大切なのは、そんなことではなかったはずだ。けれど、言うべき言葉がわからない。
――自分の置かれている状況すらわからないのに、何を言える。
アッシュの心を読んだように、声が響いた。
「今、アッシュの身体は再構成されてる。失われた部分はもうすぐ修復されて、じきに地上に戻れるよ」
ナタリアたちに会いに降りられるのももうすぐだから。そのルークの言葉で、アッシュは自分がどうやら、空の上の第七音譜帯にいるらしいということを知った。
「目を閉じれば、次にいるのは地上だ」
焦がれるようなルークの言葉が、どうやら引き金の役割を果たしていたらしい。アッシュは自分の身体に睡魔が襲い掛かるのを確かに感じた。ティアの譜歌と同じ効果を、ルークの声は持たされていたようだった。
だが、アッシュはまだ大切なことを聞いていない。そしてそれを聞くまでは、彼は眠るわけにはいかなかった。
「…お前は、戻ってくるんだろうな?」
遠ざかろうとする意識に逆らい、アッシュは声の限り叫んだ。だが、声は答えない。
そのことに苛立ち、ついでに――認めたくはないが――不安にもなって、アッシュはさらに追いすがるように叫ぶ。
「人に約束をさせておいて、自分は戻らないなどと言うつもりか、お前は!」
しばらくの沈黙の後、やがて静かに、ルークは答えた。
「…戻るよ、必ず。たとえ何十年経ったって、絶対に」
だって俺は約束をしたのだから。声はそれだけを言い残し、そして通信は一方的に切れた。それと同時に、急激にアッシュの意識が遠ざかる。
勝手に落ちる瞼の裏で、ほんの一瞬、暁色の髪の青年が笑った幻が見えた気がした。
そうしてアッシュが次に目を覚ますと、そこは淡く光る花の咲く渓谷だった。
軋む身体を起こすと、どこかから聞き覚えのある歌が聞こえた。
声のするほうに行けばきっと、彼の仲間達に会えるのだろう。どれだけ歩けばいいのかはわからなかったが、そう遠いわけでもなさそうだった。
夜の渓谷に、静かに音を立てて、はじめの一歩を刻む。
そして、アッシュは歩き始めた。
彼との約束を果たすために。
約束を果たさせるために。
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2006/3/4 アッシュとルーク