トランキライザー無効化事件
 堅苦しく首筋を圧迫する舞台衣装の襟が、人前で演奏することに慣れていない俺の緊張感をさらに重くする。
 わなわなと震える手を、がくがくと揺れる膝を、武者震いだと言い張って、こんなところまで来てしまったが。
 こんな状態でトランペット、なんて、演奏できるわけがない。
 コンクールのために練習は欠かさなかったけれど、人前での練習だってそれなりに積んできたつもりだけど、それでもやっぱり緊張するものは緊張するのだ。
 ――だのに、目の前のこの男ときたら。
「どうしたんですか、ルーク? 本番前だと言うのに、随分と青い顔をしていますね」
 なんて、いつものように性悪のやなかんじの笑顔で言うものだから、俺はその足を踏んづけてやりたくなった。
 じろり、と睨みつけてやっても、さっぱり意に介さずに涼しい顔。十センチ上にある美貌は、滅多なことでは歪まない。
 そう、この男、ジェイド・カーティスは、この状況を楽しんでいるのだ。
 俺たちは今、コンクール参加者用の控え室で二人きり。だが、ジェイドは別に参加者っていう訳じゃない。
 あまりに不本意ながら、非常に遺憾ながら、ある深刻な事情から、俺は嫌々ながらも彼をここに引っ張ってこなくてはならなかった。
 そう、とても深刻、かつ、情けない事情から。
 そしてジェイドはそれをわかっていて、なお言い出せない俺を、からかって楽しんでいるのである。
「ルーク? 用事が無いなら、私はそろそろ失礼させていただきたいんですがねぇ?」
 いやみったらしい口調、しかし、明らかに愉悦まじりで、だが彼はちょっと本気だと言うことが俺はその口調からわかってしまって、焦る。
 咄嗟にジェイドの服の裾を掴むと、彼は切れ長のガーネット色の眼で、何かを待つように俺をじっと見つめた。
「何ですか、ルーク」
 心地よい低音が俺の耳をくすぐる。ああもう、そんな趣味はまったく無いって言うのに、この声聞いてたら何だか変な方向に目覚めそうだ!
 たったひとこと。たったのひとことで、全て解決するというのに、なかなかそれを口に出せない。
 俺は目を硬く閉じて、そして覚悟を決めた。上がり症の俺の緊張を完膚なきまでに吹っ飛ばすには、これしかないのだと自分に言い聞かせて。
「ジェイド、俺に、キスしてくれ…!」
 そしてその瞬間、ノックの音も無く、いきなり控え室の扉が開いた。
 俺はぱっとジェイドの服から手を離し、後方へと飛び退く。入ってきたのは、今日の伴奏を頼んでいるガイだ。
 ノックくらいしろよ! と文句を申し立てたいが、びっくりしすぎて声が出ない。
 けれどどうやらさっきのこっ恥ずかしい台詞は聞こえてなかったみたいだった。
 調子はどうだ、といいながら、ちょっと緊張したような表情で入ってきた彼は、部屋の中にジェイドの姿を認めると、途端に不審そうな顔をした。
「あれ? なんでここにあんたがいるんだ?」
「最後の調整に、少しお付き合いしていたんですよ。あなたがお嬢さん方に囲まれていたので、代わりに伴奏を頼まれまして」
 さらりと嘘をつけるジェイドは凄い。いや、確かにガイが女の子に囲まれてるのを見計らってジェイドを引っ張ってきたんだから、一部嘘じゃないけど。
 言い慣れないことを言った俺はまだちょっとどぎまぎしているっていうのに、言われた方のジェイドは全然気にしてない感じで、それが何だか悔しかった。
 ジェイドの説明に、ふうん、とガイは頷いた。とりあえず納得してくれたのか、と思って、俺は内心胸をなでおろした。
「…って、見てたなら助けてくれりゃよかったのに」
 ちょっと恨みがましい声で言われたので、俺はごめんな、と苦笑まじりに謝った。
「何か嬉しそうな顔してたから、邪魔するのも悪いかな、と思ってさ」
「お前、俺が女性恐怖症だって知ってるだろ…」
「だけど女好きだろ」
「そりゃそうだけど」
 ガイはちょっと肩をすくめて、それから備え付けのピアノの方へ向かった。
「それでは、本物の伴奏者も来たことですし、私はそろそろ退散しますね」
 ジェイドは完璧な笑顔でそういって、ガイが開けっ放した扉の方へ向かう。流石にガイの前でさっきの恥ずかしい台詞を繰り返すことは出来なくて、俺は暗澹とした気持ちで迫り来る本番を思った。
 しかしジェイドは、途中でちょっと足を止めて、俺を呼んだ。すぐ隣まで来た俺に、耳打ちをする、ふりをして。
 やわらかい感触が、頬を掠めた。
 びっくりした俺は、思わずガイの方へと振り向いたが、楽譜に集中していたせいか、その決定的なシーンは見えていなかったらしくて、ほっとした。
「では、頑張ってくださいね、ルーク」
 楽しげに囁いて優雅に去っていくジェイドの後姿を思いっきり睨みつけるが、しかし先ほどまで俺の体を支配していた緊張はすっかり吹っ飛んでいるのに気づいて、感謝すべきか、怒っていいのか、わからなくなる。
 重い音を立てて扉が閉じるのと同時に、ガイの弾くあまやかなピアノの旋律が、俺の耳に飛び込んできた。
 エリック・サティのジュ・トゥ・ヴ。俺が今日演奏する曲ではないけど、だからと言って、指慣らしの曲、にしては、何だかいつもと感じが違う。
 そういう気分なのかな、と思いながら、トランペットをケースから取り出していると、急にガイが声をかけてきた。
「…で、ルーク。さっきのことの釈明は、聞かせてもらえるのか?」
「さっきのこと?」
 弾きながら質問してくるガイを器用だなと思いながら、首をかしげる。と、いきなりガイは演奏をやめて、サファイアの瞳でじっとこちらを見つめてきた。
 妙に憮然としている。あれ俺何かやったっけ?
「ジェイドに、キス。ねだって、してもらってたろ」
 危うくトランペットを落とすところだった。頭が真っ白になって、どう言い訳しようか、考えることも出来ずに。
 ピアノの椅子から乱暴に立ち上がって、大股で近寄ってくるガイに、逃げる間もなく肩をつかまれた。
「なあ、ルーク。どういうことだ?」

 結局その日のコンクールでは、ジェイドにキスしてもらったにもかかわらず、俺は本番でトチりまくって散々な結果に終わり、あとでアッシュにさんざん嫌味を言われたのだった。



タイトル通り、喜多尚江さんの「ピアノの恋人」が元ネタ。
きちんと読んだことないので内容うろ覚え。

2007/7/29

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