アリスは焔の森の中
赤くゆらめく焔のような姿で彼は笑う。
「俺が死んだら、お前にやるよ」
そんなもの必要ありません、咄嗟に口をついて出ようとした言葉は、音声にはならない。
彼はそんな自分に構うことなく、だって死んだらもう何もいらないからな、と淡々と。
アリスは焔の森の中
夢を見る。
焔のようにまばゆい光の中で、彼が自分に何かを差し出す。
俺にはもう必要ないから、そう笑う彼にそれを握らされた瞬間に、自分の胸には大きな空虚が穿たれ、それに伴う痛みが走る。
彼はその名を心と呼んだ。
本当の意味で、ルーク・フォン・ファブレが死んでから二年が経つ。
ここで言う「ルーク」というのは、正確にはレプリカルークのことだ。しかし彼がレプリカであることが広く知れ渡った今でも、誰もが彼のことを、「ルーク・フォン・ファブレ」、ファブレ家の聖なる焔の光と呼ぶ。
オリジナルルークは「アッシュ」、つまり燃え滓、あるいは灰と呼ばれている。なんとも皮肉な話だが、その名自体は決して珍しいものではない。灰は再生の象徴でもある。その先に命を育む。
実際のところ、ジェイド・カーティスにとって、ルークの呼び名が何であるかなどということは、最早どうでもいいことであった。彼にとってルークはルークでしかなく、そしてそのルークは既に死んだ。死人のアイデンティティなど、求めたところで何になるわけでもない。
さて、翡翠の名を持つその男は、随分と留まったまま歩きながらその場で長い夢を見ていた。
長い髪をゆるく編んで真っ直ぐに伸ばした先に結っている青い色のリボンは、彼の制服のそれとは異なる空のような海の青で、金色の流れを上手にひとつにまとめている。
彼が追っているのは両手を真っ赤に染めた白兎だ。あんまりにも赤く染まりすぎたせいで全身が真っ黒になったその兎は、居場所はわかっているが見つけることの出来ないところに行ってしまった。彼は兎を探さなければならない。兎が彼の時計を持っていってしまったから。
兎の名前は聖なる焔だ。だがその名を呼べども返事をするのはエコー、世界中に溶けてしまってどこから帰ってくるのかわからない。
「どこにいるのか白兎」
声に出せども姿は見えず。
皮肉な顔をした緑の目の猫のようなにせものは、やつはもう死んだ、と、酷く寂しそうな声でつぶやく。双子の片割れは失われた。
ジェイドはいまだに軍に在り、ピオニーのもとで多くのことを為し、変化に満ちて変化のない日常を過ごす。
生きながら死んでいるように呼吸を続ける。どこかに存在する空虚、それはもう埋めようのないほどに大きく成長してしまった。
ガイやティアのように世界中をあちこち駆け回り、それを直視しなくてすむように逃げ続けることができるほど、ジェイドはもう若くない。彼の地位もそれを許さない。
生きながら痛みをやり過ごす。ときおり忘れる。このまま忘れた方がいいのか、それとも痛みを持ち続けたほうがいいのか。ジェイドにはわからない。
ジェイドはまだ、それの扱い方を、それとの付き合い方を知らない。
彼は再び戦場に戻った。なんのことはない、血を浴びるために彼は生きてきたようなものだった、そしてそれはこれからも変わりないことなのだろう。
彼は少し齢を取っていたが、さりとて気にするほどでもなかった。彼の頭脳は常に変わらず冴え渡っていたから。
七番目の神様の召使の一番上の隣に立つ女は言った。世界は変えられなかった。彼の死は無駄だったの?
彼とは誰かと尋ねた。兎と彼女は答えた。まさかそんなはずはない。女の隣の女は言った。
無駄ではなかったはず。ただ、世界がそれを、彼のくれた機会を、上手に扱えなかっただけ。
台無しにしたのはわたしたちのほう。やがてローレライは嘆きの歌をうたい、愚かな人間を深い水の底へと引きずり込むだろう。
彼は首を振り戦場に戻る。金色の髪を結ぶ青いリボンは返り血に汚れ、結んでいた髪ごと切り落とされた。
青い目をした男はそれを見て、代えのリボンを差し出したが、彼はそれを丁寧に拒んだ。
考えなくてはならない、考えなくては。彼の生がどうすれば無駄にならずに済むのか。
忘れてしまっていたことを思い出す必要があった。エコーはもはや耳に届かない。
ジェイド・カーティスは考える。
死ねばそれで全ては終わりだ。その先を求めることは出来ないし、他の何かを繋げることができるわけでもない。それをジェイドはルークが失われる前から、その身を以って知っていた。
彼が死んだのは彼が力を使い果たしたからだ。詩人のようにいうならば、彼は世界のために、その命の焔を燃やし尽くした。彼の死が何のためにあったのかと問われれば、多くの人は、世界の為に、と答えるだろう。そしてそれは結果的には間違いない。彼にとっての事実がどうであれ。
では彼の生は何のためのものだったのか。
空虚は時折痛みを凌駕する。欠けているのとは違う、圧迫感のある空洞。この感覚をやり過ごす術は忘却以外にないのだと、ジェイドはとうに知っていた。
彼が差し出したもの。赤黒く、脈打つ、その名を。
そうしてアリスになりそこなった男は気がついた。犯人がそこにいる。
青年は花の中、ほろほろほろほろと涙を零していた。といえばロマンチックな光景だが、大の男が顔を真っ赤にして泣きながら立ち尽くすその光景は、美しいとはお世辞にもいえない。
それでも青い月の下、彼は泣く。
「あなたは誰ですか」
「俺はルークだよ。ルークだった」
金色にゆらめく赤い焔は、かなしそうに告げた。
「どうしてあなたがここにいるんです?」
「俺を縛りつけた奴がいるからさ」
ジェイド・カーティスはその瞬間、彼の後ろに、髪の長い女の影を見た。それこそが答えだった。
預言は地に戻された。沈むべきは人間だ。彼の死も生も冒涜し、今もなお、いきものでさえなくなった彼を、ここに縛り付けている。
「ルーク」
ジェイドは泣いているこどもに手を伸べた。
私があなたを自由にしてあげます。あなたを幸せにしてあげます。だからどうか、この手を取って。
泣き腫らしたみどりの瞳が、まじまじとジェイドを見つめる。
白くない白兎が、アリスではないアリスを見つめる。じっと自分に差し出された、手袋に包まれない手を。
青年の震える指が、男の冷たい指に触れる。それをしっかり捕まえて、思い出したように彼は尋ねた。
「ところでルーク、こころとは、いったいどのようなものですか?」
ルークは不思議そうな顔をして、それからちょっと微笑んだ。
「なんだよいきなり、やぶからぼうに。どうしても今聞きたいことか?」
ジェイドが、ええ、と肯定すると、ルークはそっと、繋いだ手を持ち上げた。
繋いでいない方の手で、ジェイドの手を包み込んで、お前はもう答えを知っているくせに、と囁く。
そうなのかもしれない。
ジェイドは頷き、身を屈め、青年の赤い髪に唇を落とした。
(そうだ、私は、彼の心をもらってしまったのだった)
そうして二人は逃げ出した。赤く燃える星に抗うように。戦火を避けて森の奥、誰も触れることの出来ない世界へ。
青い目をした王様が、憂鬱そうに溜息をつく。
アリスでないアリスには姉はいなくて、残された妹は、白く凍える町の中、ずっと帰りを待っている。
嘆きの歌が聞こえる。
2008/12/23 ジェイルク