アンダー・ザ・ムーン
 キムラスカのファブレ公爵家といえば、キムラスカ人であればその名を知らぬものはないほどの古い名家だ。一説にはキムラスカ王家と同じか、それ以上にその歴史は古い、という。
 というわけで、現在ノエルが、祖父達につれられてやってきた、公爵家主催のこの夜会も、それ相応に規模の大きなものだった。
 新型の飛晃艇であるアルビオールの完成お披露目、という程度の認識しか持っていなかった彼女の度肝を抜く程度には。
 煌びやかに輝く数々の明かりたちに、磨き抜かれた調度が光を放つ。テーブルの上に上品に、しかも豊富に揃えられた料理たちは、たかが一介の整備士に過ぎないノエルの人生では、これまでも、そしてきっと今夜を除けばこれからも、見ることさえ叶わないだろう最高級のものだ。
 そしてノエルは同時に、彼女の十六年の人生でも、今までで最高の、居心地の悪さを味わっていた。
 アルビオールが特にファブレ公爵家の強力な支援があって完成したものだというのは重々承知しているが、それにしてもノエルにはそぐわない世界だった。仕方なく腕を通した安物のドレスだって、普段は作業着ばかり着ているノエルにとっては、十分堅苦しくて息苦しい。
 そう、もともと、ノエルや祖父達だって、ここにくることになるとは予想もしていなかったのだ。
 ファブレ公爵からの誘いがあったとき、一度は祖父達も辞退したという。けれど、何故か今回、ファブレ公爵は執拗だった。
 音機関そのものには興味がないはずの彼にしては珍しいと訝ったものの、断りきれるわけもなく、現在こうして窮屈なドレスに身を包んでいるのだ。
 一緒に来た筈の祖父たちは、ファブレ公爵に紹介された途端、あれよあれよと人に囲まれて近寄ることも出来なくなった。というわけで手持ち無沙汰のノエルは、華やかな服装の紳士淑女の間を縫って、壁際の隅のほうにたどりつき、そこでおとなしくしていることにしたのである。
 自分が輪の中にさえいなければ、人間観察は面白いことだといえた。退屈だけはしないですんだが、しかし、ときどき寄せられる、場違いなものを見る視線はやはりきまりが悪いものだ。自然と俯いて、何とはなしに、ドレスに合わせるためだけに買った赤い靴を眺めていたら、思いがけず近くで若い声が聞こえた。
「ったく、うるせーな、アッシュ。俺は俺一人でも十分だっつーの」
 乱暴にぐしゃり、と、丁寧にセットされた赤い髪をかきあげる青年を、苦々しい表情で見ているのは、よく似た顔の青年だった。こちらの青年は腰まで届く長い髪を、背中に編んで流している。
「それが信用できれば俺はついてこない」
「アッシュの言うとおりですわ。ルークをひとりにしておくと、何をするかわかりませんもの」
 溜息をついた青年の隣では、長身の金髪の美少女が、両手を腰に当てて、困ったものを見るような目でもう一人の青年を覗き込んでいた。
「心配しなくても、父上やお前らに迷惑かけるようなことはしねえよ…」
 ったくうぜえ、と言いながら、青年はだんだんこちらに近づいてくる。それを追いかけるようにして、もう一人の青年と少女も、壁際の方に歩いてきた。
 だがその途中でその若者達に気づいたらしい、貴族と思しき男性が、何事か長髪の青年と少女に声をかけて、それから密かに、追われていた青年にも軽く微笑みかけた。追われていたほうの青年は、軽く会釈をして、足早に人ごみの中に紛れる。
 鮮やかな緋色の髪が、妙に印象的で、気付くとノエルは何故か、まるで何かに吸い寄せられるように、その後を追っていた。

 青年は会場をするりと抜けて、中庭と思しき場所に出ると、そこでぴたりと立ち止まった。ノエルは慌てて、近くの柱に姿を隠す。
 彼は近くにあったベンチに、貴族らしくなくどかりと座りこむと、すっと上天を見上げた。淡く青く輝く月が、開けた庭を、不思議に明るく照らしている。
 ぼんやりとしている青年のすがたは妙にはかなげで、ノエルは何となく、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。立ち去ろうとして、なるたけ静かに後ずさったつもりが、履きなれないピンヒールが妙に高い音を立てて、青年の注意を引いた。
「そこに誰かいるのか?」
 青年のはかなさは一瞬で霧散して、代わりに少し厳しい不審の表情が浮かぶ。ノエルはどうにでもなれという気持ちで、柱の影から姿を現した。
「ごめんなさい。お邪魔するつもりは、なかったんですけど」
 青年はノエルの姿をしばらく見つめていた。表情が抜け落ちてしまった青年に、あの、と彼女が声をかけると、青年は慌てて立ち上がった。
「あ、ああ、ごめんな。ええと、君は?」
「シェリダンのノエルです。飛晃艇の整備士兼パイロットとして、今日はこちらに」
 青年は目を丸くして、え、と気の抜けたような声を立てる。
「君がパイロット? へえ、すごいんだな、ノエルは」
 予想以上に真っ直ぐな感嘆の言葉をかけられて、ノエルはどぎまぎした。
「そんなことは…。今日私がついてきたのだって、本パイロットの兄が病気で来られないからですし」
 ノエルの言葉に、謙遜しなくてもいいのに、と彼はやわらかく笑った。その笑顔にまたどきりとして、青年を直視できなくなったノエルの視線は行き場をなくす。
「…と、俺の名前まだだっけ。俺はルークっていうんだ、よろしくな、ノエル」
「え、ええ」
 人懐っこい笑みをうかべるルークは、十分とはいえない明るさの月光の下でも、なぜかきらきらと眩しいように思えた。
「ったく、お互いたるいよなあ。こんな夜会、父上とアッシュにうるさく言われなきゃ、ぜってー出ねえのに」
 ぶつぶつと文句をたれるルークはまるで幼い子どものようで、ノエルはあっけにとられる。服装からすると彼はどう見たって貴族の青年なのだが、言動といい行動といい、あまりにもらしくない。まるでシェリダンの町を普通に歩いている青年と変わらない様子で、君も大変だよな、などと同情の視線を向けてくる彼は、しかし、先ほど見かけた同じ顔をした長髪の青年や、他のすました貴族達よりも、ずっと親しみやすく思えた。
「ルークさんは、こういった催しごとはお嫌いなんですか?」
「さんはいらねえって。どうせ同じくらいの年だろ」
「でも…」
「いいんだよ、どうせ俺たちしかいないんだし、貴族の品格がどうのとうるさいやつらはどうせここまで来ねえし」
 肩をすくめた青年には、やはり、貴族らしさはない。けれどその仕草は、妙にしっくりと似合っていた。
「こういう夜会ってかったるいんだよな。どうせ家を継いでナタリアと結婚するのはアッシュだし、俺のことなんかほっといてくれりゃいいのに、そんな訳にもいかねえっていうし」
 アッシュというのが、先ほどの長髪の青年の名前だろう。先ほども何かもめていたようだし、仲が悪いのか、とも思うが、それにしては言葉にとげがない。
 他人の、しかも貴族の家の事情なのだから、ノエルにはどちらにしろ全く関係のないことではあるのだが、けれど青年の様子はどこか気になるところがある。
「っと、悪い、何か愚痴っちまったな」
「いいえ。折角招待してくださった公爵には悪いんですけれど、私も何だか、こういう場所には馴染みがなくて」
 貴族でもないですしね、と苦笑すると、だよなあ、とルークは深く頷いた。
「俺も貴族の中では浮いてるからな。全く父上も、俺をさっさと家から出すなり何なり、してくれればいいのに」
 ああ、やっぱり浮いてるんだ、と少し失礼なことを考えながらも、それだけにしては妙に暗い表情の青年が何故だかほうっておけなくて、ノエルは思わず申し出ていた。
「あの、よければ、なんですけど。…あとで、飛晃艇、乗ってみませんか」
「え?」
「ルークさんを連れ出すわけには行かないですけど…ちょっとした、気分転換で。どうでしょうか?」
 きょとん、とした青年は、しかしすぐにぱっと顔を輝かせた。
「いいのか?!」
「ええ。どうせあとで、夜間の試験飛行もしなければなりませんから、そのときでよろしければ」
「マジで? あとでやっぱりやめた、とかは無しだぜ」
 そこで、ノエルははた、と気がついた。
「…でも、一応、ファブレ公爵には許可を取らないとならないと思います」
 何と言っても飛晃艇の持ち主はファブレ公爵である。彼の許可を取り付けないで他の人間を乗せたとなれば、大問題になりかねない。ましてやルークは貴族なのだから。
 しかしそれを聞いたルークは、あからさまにほっとしたようだった。
「あー、そりゃ、俺が何とかするよ」
「え?」
「多分大丈夫だ。だからそれは心配するな」
 ちょっとめんどくせえけどなー、と軽く笑い、彼は続けた。
「ファブレ公爵はまあ、基本的に話はわかる人だから」
 同じ貴族だけあって、何かつてがあるのだろうか、妙に親しげでさえある。公爵クラスの貴族とそこまで近いということは、ルーク自身の地位もかなりのものなのでは、ということに思い至って、ノエルはやっと、事の重大さに気がついたのであった。


2008/8/9 ルクノエ

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