アンダー・ザ・サン
「…へへ。会いに来ちまった」
 どこか困ったような顔で笑う彼に、一瞬思考が停止した。だってここにいるはずがない。
 驚きのあまりに反応できないノエルの様子をどう思ったのか、迷惑だったか? と青年がうなだれる。ノエルは慌ててかぶりを振った。
 びっくりしたんです、と伝えると、ま、それも当然だな、とルークは明るく笑う。
「狭いところですけれど、どうぞ」
 そういって奥にすすめたが、青年は頷かなかった。
「今日はちょっと、近くに寄ったから、ついでに顔を見に来ただけだし。すぐ帰るよ」
「でも、」
 ノエルはそこで気がついた。彼ほどの身分の青年なのに、周りに護衛らしき人間の姿が見当たらない。
 彼はもともと貴族社会にうまく溶け込めていないようすだった。そして、何度も脱走を試みては失敗しているということも、あとで聞いた。
「…まさか」
「そのまさかなんだ、これが」
 さっと顔色を変えたノエルに、ルークはいたずらっぽく瞳をきらめかせる。
「家出しちまった」
 ノエルは再び思考を停止させた。


アンダー・ザ・サン


 シェリダンの町はきらきらと、金属の鈍い光を反射して眩しい。目に付き刺さる白光は、徹夜明けのノエルの視界を容赦なく灼いた。
 彼女はこっそり、隣でジュースのストローを銜えてぼんやりと街を見ている青年を仰ぎ見た。
 端整なつくりをした顔立ちは華やかで、それでいてどこか気品に溢れている。憂鬱そうに伏せられた緑色の瞳は、あのパーティの日の夜と同じ色をしていて、胸のどこかがきゅっと痛くなった。
 あの日、彼と一緒にバチカルの空を飛んでから、ほぼ一ヶ月。宝石箱の中にしまわれた輝石のようにきらめくその夜のことを、何度も何度も思い出しては、密やかな溜息をつく日々を送っていた。色気づいたな、なんて兄にからかわれることはあったけれど、これはそういうのではない、とノエルは思う。
 貴族社会という、ノエルにはまるで想像もつかないような場所で生きてきた彼は、まるで陸に上がった人魚のように、苦しそうに呼吸をしていた。その様子があんまりにも気がかりで、雲の上の星空を、とても哀しそうに見つめるその様子が、あんまりにもかわいそうで――だからこれは、たぶん、恋というよりは同情に近いのだ。そんな感情を抱くこと自体、彼に対して失礼だと、わかってはいるのだけれど。
 だから、家出しちまった、と、はればれと、しかしどこか寂しそうに微笑む彼を、そのまま送り出してしまうことはノエルにはできなくて、それではせめて、と街のカフェに彼を案内したのである。彼の髪はあの日と違って、真っ黒に染まっていたから、声を聞くまで誰だかわからなかった、ということへの罪滅ぼしもかねて。
 彼の姿は完全に旅慣れた商人か何かのようで、こうしていると彼が天上人にはとても見えない。綺麗な顔だから目立っているのは目立っているが、それでも、ノエルと共にあって浮いてしまう、ということはなかった。
「ルーク、」
「うん?」
 ルークは雑踏から目を逸らさない。そのことにちょっとほっとして、そしてどこかでがっかりしながら、ノエルはそっと尋ねた。
「おいしいですか?」
「ん、ああ、うまいよ」
 彼はストローから唇を離して、答えた。
「屋敷にいた頃はこんなの、飲んだことなかったし」
「そうなんですか、…ここのお店のはおいしいって評判なんですけど、もし口に合わなかったらどうしようかって、ちょっと不安だったから良かったです」
「へえ。うん、でも、ほんとにうまい」
 ルークはにっこり、笑った。子どもみたいに無邪気な顔で。
「やっと、自由って感じだ」
 ぽつり、と呟いた言葉がどこか寂しそうで、ノエルは俯く。
「…どうかしたか?」
 いえ、とノエルはかぶりを振った。ああー、とルークはがしがしと頭をかいて、それから言った。
「あのな、ノエル。俺は俺の意志で出てきたんだ。だから、そんな顔するなよな。せっかく会いに来たのにさ」
「え」
 ルークは、雑踏の方を向いたまま、頬を赤くしていた。
「だから、ついでじゃなくて、ノエルに会いに来たんだよ。…あーもう、言っちまった」
 はああああ、とルークが大きく溜息をつく。ノエルの顔もみるみるうちに熱くなった。
 どこかやけっぱちな口調で、彼は言った。
「あのな、ノエル」
「はい」 「ほとぼりさめたら、また会いに来るから」
「はい」
「それまで! …彼氏とか、作んないでくれよ、頼むから」
 ノエルはちょっときょとんとして、ルークの顔を覗き込んだ。
 照れたように伏せられた顔のなか、緑色の目だけが、ノエルより大きい筈の身長なのに、どこか不安そうな上目遣いで、妙に可愛らしかった。
「はい、待ってます」
 ルークは、頼むぜ、と笑った。ほんとうにうれしそうに。

 それはある、罪のない昼下がりのこと。


2008/12/23 ルクノエ

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