マグ・メル
ルークは祈っていた。
神を信じたことなどなかった。けれど何者かに祈らずにはいられなかった。
幼い頃に習った神をたたえる詩歌の一片を繰り返し繰り返し呟く。正しくローレライ教団の祈りの型を再現し、聖なるユリアの像の前にひざまずく。
預言を外れた罪深き、神に見放された世界。神のいなくなった世界で、ここだけがかつての神への信仰のすがたを残していた。
ルークは――正確には、かつてルークと呼ばれていた青年は、ひたすらにただ、祈っていた。
色鮮やかなステンドグラスが、とりどりの光を格子模様の床の上に投げかけている。荒れ果てた狭い聖堂の中、幾つもの朽ちた椅子が、青年の背後に並んでいた。
ぎい、と入り口のほうで、蝶番が軋む音がした。青年はびくりと身体を震わせ、息を殺す。
かつり、硬いブーツが、石畳の床を叩く。
「いるんでしょう――」
聞き慣れた声。呼ばれていた。しかし、その前に姿を現す勇気を持たない青年は、祭壇の陰に隠れて身を縮め、見つからないことを祈るだけだった。
「出てきてください、――」
優しい声音で名を呼ばれた、足音はだんだん近づいてくる。青年は背にじっとりと汗をかいていた。いつしか目には涙すら滲んだ。
嫌だ、来るな、気付かないでくれ。頼むから神様――!
こつん、祭壇のすぐ前で、足音が止まる。相手の息遣いすらわかりそうだ。目をぎゅっと固く閉じて、青年はただ、彼が通り過ぎることだけを祈る。
「ルーク」
囁きはすぐ、目の前から聞こえた。
青年の瞳から溢れた水滴が、冷たい床に零れ落ちる。白すぎる閃光。
マグ・メル
がばりと体を起こすと、まだ辺りは暗かった。薄く開いたカーテンの隙間から、白く鋭い月光が零れている。
背中がびっしょりと濡れていた。鼓動が早い。深呼吸をして、息を整える。冷たい夜気が体の中に満ちた。
ようやく少し落ち着いた気がして、ベッドから降りようとすると、引き止める腕があった。シーツの中から伸びたしなやかな、白い腕。
「…どこにいくんですか」
トーンの高い、舌足らずな声。少年の声だ。どこか不安そうなその問いかけに、少し苦笑して、彼のさらさらとした髪を優しく撫でた。
「ちょっと水飲みにいくだけだ。すぐに戻るよ」
安心させるようにそう言うと、するりと拘束は解けた。彼の両親、つまり隣家の夫婦が遠出すると言うのでその間だけ預かっているのだが、その必要がないのではないかと思うくらいにしっかりしている。なのに時々子供っぽい仕草を見せる。とても不思議な少年だった。
最後にもう一度だけ少年の髪を撫でて立ち上がる。北国の、忍び込む冷気が染みこんだ靴を履く。妙に心地よかった。不思議な感じだ。
寝室を出て台所に向かう。廊下の小さな窓から、柔らかな白い光が差し込む。月明かりではない。雪だ。
こつん。唐突に硬い音がして、そちらにふりむく。廊下の窓の外から、こつん、こつん、と何かがぶつかってきているのだ。こんな夜更けに誰が? 考えるまでもなく、答えは決まっていた。応えるように窓を開けると、予想通りの人物が、夜の闇の中で白く浮き上がって見えた。玄関に回るように身振りで示すと、人影は頷いた。
音を立てないように窓を閉めて、階段を下りた。すぐ手前の台所を素通りして、玄関の扉を開ける。
「こんな夜分にすみません」
「まったくだ」
頷くと、男はくすりと笑った。
「少し歩きませんか?」
ちらりと二階に視線をやる。すぐ戻ると言ってしまったのが気になる。目の前の男は、ああ、と頷いた。
「彼に伝えるくらいなら待てますよ」
「そうか? じゃあ、中で待っててくれよ」
誘うと、彼はゆるくかぶりを振った。
「いえ、僕はこの街の夜が好きなので」
相変わらず少し変わった男だった。しかしこの街の寒さは、慣れない人間にはこたえるはずだ。その旨を告げると、男は柔らかな微笑を浮かべて、ではお言葉に甘えて、と言った。
男を待たせて、二階の寝室へと上がる。ノックをしても反応がない。眠っているのだろうと思ったが、ドアを開けるとお帰りなさい、とくぐもった声がした。知り合いが来たから少し外に出てくる、とベッドの中で毛布に包まっている少年に声をかけると、迷子にならないでくださいねとつまらなそうに言われた。余計なお世話だと思いながら階段を下りると、男は凍りついた窓硝子を面白そうに眺めている最中だった。
彼は自分に気付くと、柔らかく微笑んだ。多分彼のこの表情が、自分が一番良く見ている彼の顔ではないかと思う。
「一人で残しても大丈夫ですか?」
「心配しなくても、あいつは俺よりしっかりしてるだろ。一応鍵掛けて行くし、大丈夫だ」
「そうですか。…では、行きましょうか」
男はそう言って背を向けた。黒い外套に白いマフラーが玄関をくぐる。自分も皮の外套を羽織って、その後を追った。
ちらちらと白い雪が、蒼く暗い夜の空から降ってくる。先ほどまであったほんの少しの晴れ間も消えて、世界は冷たい箱の中に閉ざされているようだった。
周囲の民家はとうに明かりを消している。街燈すらもちらちらと、明かりが危うく揺れていた。
男の三歩後を追いかける。自分より背が高く、自分よりも年上の、男。
彼は町外れの広場で立ち止まった。自分も倣って立ち止まると、彼は振り返った。
辺りが暗いせいか、顔がよく見えない。けれどきっとあの笑顔で笑っているのだろうと言うことが、何となく気配でわかった。
「この街の夜は静かですね。…あの島とは、全然違う」
「…ああ」
同じにせものの島で生まれた同郷の男は、柔らかい笑みを浮かべる。
「昔来たときとは随分と雰囲気が違いますが、僕はこの空気も好きです」
彼の指す、昔、が何のことであるのか気がついて、自然と表情が険しくなったのを感じたのだろう。彼はすみません、と先手を打って謝ってきた。
「けれど僕は、どうしてもあなたにもう一度会いたくて、ここまで追ってきたんです」
彼の顔がわからない。彼が、どんな顔をしているのか。わかりたくない。
「僕を拒まないでください、ルー、」
「俺はルークじゃない」
言葉を遮る。新しい雪が頭の上に肩の上に、冷たく積もっていく。
「…俺は、ルークじゃ、ない」
ひとつひとつ言葉を確かめるように繰り返す。男は、かなしそうに、黙ったままだった。
夜の街は死んでいた。白い雪に埋もれて、凍りつく。
今この場でたったふたり生きている自分たちの吐息もまた、白く、けぶって消える。
降る雪はだんだんと、その量を減らしていた。雲が薄く消えて、光が漏れる。
男の端正な顔が、皓々と輝く月の光に照らされた。
彼はちょっと驚いたように月を見上げて、それから小さく呟く。
「…あれから、どれほど経ったのでしょうね。知っていた人は皆死に絶え、あの頃にあった国も滅びてしまった。けれどこの街に降る雪だけは、変わらずに美しい」
男は続ける。月の光。あの頃に見た、空を埋め尽くすような星。砂漠の乾いた空気。夜にだけ咲く魔界の花。
火山で輝く禍々しい石。静かな嘆きの慰霊祭。そしてルークと師を葬った、七の歌。
荒れてゆく世界を救わぬユリアとローレライへの祈りだけが静かに、密かに、人々の中に残った。そしてそのために自分と彼は、かつての記憶を呼び起こされた。音譜帯の内の安寧の、永遠の眠りから引きずり起こされた。
違う。自分はルークではない。だから音譜帯の中で眠るのは、今も昔も、自分ではない。
俺の二十六年を、否定しないでくれ。懇願する。男はうっすらと笑うだけだ。
「ええ、あなたはルークではない。そして僕も、イオンではない。…けれど、僕達にはもう行くところなど、…行ける所など無い」
「…、…っ」
男の名前を呼んだ。男は嬉しそうに笑った。
「あなたに初めて逢ったときに、僕はこれを運命だと思いました。おかしいですか? けれど本当に、僕はそう思った」
体が震える。いやだ、これ以上聞きたくない。けれど男は続けた。
「あなたがあの島に連れてこられたとき、僕はとても嬉しかったんです。やっとこれで、失くしていた自分の欠片に会えたと、そう思えた。そのせいでたとえ、望まない前の生の記憶を、与えられたとしても」
男の表情は優しく、声音は甘く、縋り付きたくなるほどだった。体が冷たくなっていく。立っていられないほど。
さくり、と雪を踏んで、男は近づいてきた。自分と同じ目線にあわせて、頬を掌で包み込んでくる。泣きたくなるほど温かい手。
「僕はあなたに逢いに来たんです。そうしてできれば、あなたと一緒に、生きてゆきたいと思っている」
「…俺のせいでっ、お前は故郷を追われたんだぞ…! 俺と一緒にいたって、ろくなことにならないだろう!」
叫んで腕を振り払う。反動でそのまま雪の上に尻をついた。睨みつけると、男は困ったような顔をしていた。何かを伝えようとしていた。けれど自分には聞く気はなかった。
なのに、どうしても、逃げられない。
「たとえ僕があそこに残れたとしても、あなたがいなければ、意味がありません」
真摯な深い緑の瞳。それだけが、前の彼と同じ。その他は何もかもが違う。声も顔も、体つきも。性格さえも。
「…僕といると過去を思い出すと言うのなら。島から流されたあなたを育てた、あの優しい夫婦のところに戻ったっていい。彼らがあなたに年毎に様々なものを送っているのを、僕は知っています。彼らもまた、あなたを待っている」
彼の言葉で、父親と、母親として慕ってきた顔を思い出す。あの顔を苦痛で歪めないためになら、自分は何だって差し出せるだろう。
男は自分の手を握った。優しく、しかししっかりと。
「僕達はあなたに幸せになって欲しい。…それだけが望みです。そして出来れば僕は、あなたを…あの場所に、連れて行きたいと思っている」
それが駄目なら一緒にいさせて欲しい。男はそういって、握った手に、額を当てた。声が震えている。白く凍り付いていく。
自分の身体は冷たすぎて、温かい所には戻れない。そんなことをしてしまえば、多くの罪を凍らせて出来たこの身体は、溶けて崩れてしまうだろう。
けれどこの手を引き剥がせない自分を、自分はとっくに知っていた。
結局彼はこの街に居つき、自分と共に私塾の教師もどきのようなものをはじめた。
彼はもう、自分に、あのあたたかい場所に帰れとは言わない。自分たちが生まれて、そして追い出された島にも、もう戻れない。
ただやわらかく笑って、そして時々、冷たい雪の降る中で、そっと互いの手を握る。何よりも恐ろしくて何よりも懐かしい温度。
真摯な緑の瞳が、白銀の月に煌くのを、自分は隣で見つめる。その光景は、いつだってどこか絶望に似ていた。
祈りはいつも届かない。何故なら自分は、彼に見つかってしまった。そして自分も、彼を。
そうして今日も自分たちは、雪に閉ざされ、神に見放された地で、血に濡れた夢を見る。
2006/12/11 イオルク…?