もう、声は届かない
ねえ、イオン様。
わたしは一体、何をしてあげられた?
わたしはイオン様もルークもいっぱい傷つけて、それなのにたくさんのものを貰った。
二人とも、最期に見たのは笑顔だったから。哀しそうでも笑顔だったから、わたしは時々どうしていいのかわからなくなる。
ねえ、イオン様。
わたしはあなたとルークに、今も生かされている。
わたしは一体、何が出来るのだろう?
アニス・タトリンがローレライ教団の大詠師の座に就いたのは、アッシュがオールドラントに帰還してから三年ほど経ったころだった。
ユリアシティ市長のテオドーロの支持、そして救界の英雄のひとりとしての名誉が、その最年少での着任を後押ししたのは事実だ。キムラスカとマルクトそれぞれの勲章を、他の『六人』同様に与えられた彼女は、それを踏み台として更なる高み――かつて彼女の守った導師の地位を願いを、目指している。
それは彼女が通ってきた茨の道の一端でしかない。そしてこれからもその道は、さらに険しく続いてゆく。
アニスはとうにそれを覚悟し、時折揺れ迷いながらも、かつての旅の仲間たちや、新しく出来た同志に励まされながら、歩いていく。そう決めた。
今回のキムラスカへの来訪は、言うなれば小さな寄り道だった。勿論公務としての面はあるが、それ以上に旧知の友に会える、という喜びのほうが、彼女の中では大きかった。
ダアトにおいてきたフローリアンのことは心配だ。しかし彼は以前と違い、笑顔でアニスを見送った。子供は知らぬうちに巣立っているものだと、ガイがいつか苦笑交じりに言っていたのを思い出す。
(結婚もしていないのに子持ちだなんて、冗談じゃない)
そうは思っても、アニス自身のフローリアンに対する感情は多分、ガイがルークに向けるそれと近いのだろうと、アニスは勝手に解釈していた。
あたたかくやわらかな、それでいて決してそれだけではない複雑な感情。
思わず口元にやわらかな微笑が浮かぶが、それを自覚してアニスは、自分はまだまだだということを痛感した。どこぞの大佐殿のようなポーカーフェイスにはまだ程遠い。
いきなり他所の、しかも公式な場所でにやつく大詠師など、怪しい人間以外の何物でもない。アニスはキムラスカの玉座へと繋がる長い階段を上りながら、そっと目を伏せた。
次に目を開くときには、教団を支えるひとりの人間としての顔に、戻っていられることを願いながら。
久しぶりに会ったナタリアは、あいかわらずの様子で、旧知の友人を出迎えた。
その成熟した美しさは、やはりまだ自分には届かないものなんだなあと、アニスは羨ましがると同時に感心する。
キムラスカ=ランバルディア王国の次期女王としての風格はまだまだだけれど(といっても比較対象はピオニーとインゴベルトしかいないので何とも言いがたいが)、それでも王族としての威厳とかそういったものは、会うたびに増しているような気がする。
久々にあったものだから話も弾む。お互いの近況を話し合ううちに、ふとアッシュのことが話題に出た。
戻ってきた彼は早々にキムラスカ王国の王位継承権を返上し、ファブレ公爵を継ぐつもりでいるようだった。お互いに想いあっているくせに今はまだ結婚をするつもりがないという二人の意見の一致は、おそらく――いなくなってしまった、彼、のためなのだろうとアニスは思う。
彼らがどう思おうが勝手だが、多分ルークがいたらそれは望まないだろうと、最初に聞いたときは思ったものだ。しかし、肝心の二人の気持ちの整理がそう簡単につくとも思えなかったので、彼女は何も言わなかった。
帰還したアッシュはルークと言う名前を頑なに拒み、結局今でもアッシュと呼ばれている。
本当は名前なんか大したことじゃないんだと、いつかアッシュは遠回しに言っていた。しかしそれでも名前にこだわるのは、彼のレプリカと重ねられることを嫌ったのか、それとも名前まで奪えば本当に、彼がいなくなってしまうと思ったからなのか。アニスには判断はつかない。
アニスにはレプリカがいないしアニス自身がレプリカなわけでもないので、アッシュの気持ちもルークの気持ちもわからない。ただ、イオンはイオンだったし、シンクはシンクだったし、フローリアンはフローリアンだ。同じ顔をしていても、三人とも全く違う。だからアッシュの言うこともなんとなくわかるような気がして、そのときは素直に頷いた。
アッシュは帰ってきたばかりの頃、それはそれは酷い顔をしていた。酷い顔という意味ではティアもガイも相当なものだったし、ナタリアだって…おそらくアニス自身だって、似たようなものだったのだろう。あのジェイド・カーティスですら、どこか失敗した表情を繕い続けていたのだから、それは当然のことではあった。
何故ならルークは死んでしまった。そしてもう二度と戻ってこない。
彼はイオンと同じ場所に行ってしまったのだ。
けれどアッシュのそれは、他の面々と同じで、しかし全く違うところがあった。それは彼が、ルークの命を奪ったと、間接的にでも奪ってしまったのだと思い込んでいたことだった。
無論ルークの命を奪ったという意味では、他の誰もが同罪だ。レムの塔で彼を止めきることができなかった、或いは止めさえしなかったという時点で、彼は世界への犠牲に捧げられてしまったのだから。
だがアッシュには、ルークの記憶が引き継がれている。望むと望まざるとに関わらず、結果的に彼はルークの全てを喰らって甦った。
それはようやくルークと一人の人間として、真っ直ぐ向き合おうとしはじめていたアッシュにとって、何よりも悲痛な経験となったのだ。
二年間、ジェイドはそれをずっと黙っていた。知っていて黙っていた。それはどれだけ辛いことだっただろうとアニスは思う。
誰かが彼は戻ってくると口にするたび、じくりじくりと緩やかに、傷口は抉られていく。
イオンを騙していたとき、アニスはそれと同質の痛みを知っていた。黙っていることの辛さを知っていた。
けれど彼はあまりにそれをうまく隠したものだから、アニスは結局全てが終わってから起こっていたことを知って、そして何も出来なかった自分の無力を悔やむしかなかった。
アニスは自分の痛みを知っている。けれど他の人間の痛みまで、知ってあげることは出来なかった。
それはルークが、自分が死ぬということを隠しているのを知っているのを隠していたときも、感じていた痛みだった。
自分は無力だ。
そして酷い顔をしていた誰にも、アニスは救いをあげられなかった。イオンのようにルークのように、赦しを与えることは出来なかった。
何故ならアニスもまた痛みにもがく咎人で、そしてイオンでもルークでもなかったから。
アッシュがそれほど酷い顔でなくなったのは、彼が帰ってきてから一年ほど経ったころだったろうか。
それは彼が帰ってきてから自然と足が遠のいていたバチカルに、久しぶりに訪れたときのことだった。
その日アニスは何となくファブレ家の屋敷に顔を出し、そして出てきたアッシュを見て、彼女はまず呆然とした。
「…どーしたの、その頬」
「…」
あくまで沈黙を貫こうとするアッシュに、アニスははたと気がついた。
「さてはナタリアにやられたんでしょー。でないとあんたが黙ってるわけないもん」
アッシュはわかりやすく眉をはねあげた。嘘をつくのが下手なのは、レプリカのルークと同じだ。
「ねえねえ、何があったの? 喧嘩してたようにも見えないしぃ」
「…何でもかんでも口を突っ込むのがダアトの未来の導師サマの信条か?」
意地の悪いアッシュの返答に、負けずにアニスも口の端を吊り上げる。
「そりゃーねえ。喧嘩に乗じて玉の輿に乗るチャンスゲットv なんてね」
「安心しろ、それは未来永劫ありえない。ファブレ家からの援助で満足してろ」
「ぶーぶー!」
おちゃらけて言えば、アッシュは呆れたようにため息をついた。それを見て、こいつも丸くなったもんだなあと変な感慨にひたる。
「お前十八にもなってそれはないだろう」
「いいのー、アニスちゃんは何やっても可愛いから」
「…はぁ」
大げさにため息をついて見せたアッシュに、さらなるおちょくりをかける。
「あ、何疲れてんの? アッシュの癖に生意気」
「何だと?」
ああ本当に、真面目な彼で遊ぶのは楽しい。ルークとはまた違った反応が遊びがいがあっていいねえなどと勝手なことを思いながら、アニスは笑った。
「で、ほんとになにがあったの?」
「…お前には関係ない」
突き放すような口調に本当に放されないように、アニスは言った。
「そりゃそうだけどさ、気になるよ。だってアッシュがそんな顔してるときって、たいていルーク絡みじゃんか」
「…お前に何がわかる」
本気で不愉快そうにアッシュは眉を寄せた。
「わかんないよ。わかんないから聞いてるんじゃん」
アニスの返答に、アッシュは訝しげな表情をした。
「だって聞かなきゃわからないことってあるでしょ。わたしはアッシュのことも仲間だと思ってるよ。仲間のこと知りたいと思って何かおかしい?」
「俺はお前を仲間だとは思ってない。第一、お前の仲間はルークであって、俺じゃない」
「このわからずや。にぶちん。確かにあんたはルークじゃないよ、そりゃわたしだって知ってるっつーの。それとは別にあんたを仲間だと思ってるんだっての」
アニスは腰に手を当ててアッシュを威嚇した。
「バチカルを避けてただろう」
「それは…だって」
口ごもったアニスに、そらみろといわんばかりの視線をアッシュが投げかけた。それにカチンと来たアニスは、つかつかとアッシュの方へと近づいて胸ぐらを掴んだ。
「ええそりゃ避けてましたよ、だってここにはルークの思い出がいっぱいなんだもん。だけど結局どこいったってそれは同じなんだって気付いたよ、だからここに来たんじゃんか」
「…」
「世界中あっちこっち一緒にアルビオールで飛び回ってたんだもん。…ルークの思い出がない場所の方が、すくないんだよ」
震える手のひらがアッシュに悟られないようにしようと努力して、やめた。どうせもう気付かれている。
その代わりアニスは声を張り上げた。
「ナタリアにぶたれたのだって、どーせそんな卑屈なこと言ったからなんでしょ。俺があいつの場所奪ったからだとか何とか言って、ナタリア怒らせたんでしょう。城に寄って来たから知ってるんだからね、ナタリアが落ち込んでるの」
アニスはそういって、手を離した。
「もう落ち込むのいいかげんにしなよ。でないとルークだって怒るよ」
「お前があいつの何がわかるって言うんだ!」
突然激昂したアッシュに、アニスは一瞬身構えた。真っ直ぐにその燃える緑を見返す。
「わかるよ。…たった一年しか一緒にいなかったけど、それでもわかることはあるよ」
優しかったルーク。イオンを裏切って死なせてしまったアニスに、それでもがんばったなと言ってくれたルーク。
アニスを、赦したルーク。
「あいつはアッシュに、今みたいにぐだぐだ落ち込むことだけは絶対望んでなんかない。…だからそんななっさけない顔するのは、いいかげんやめてよ」
アニスはそういって、アッシュをじっと見つめた。置いていかれた子供のような顔をしている大人を、じっと見つめた。
「…ナタリアと、同じことを言うんだな」
ぼそりと呟かれたアッシュの言葉に、アニスはため息混じりに言った。
「今のあんた見たら、ティアだってガイだっておんなじこと言うよ。ううん、もしかしたら大佐だっていうかもしれない。だってアッシュ、あんたは今、ルークがくれた命を、勝手に意味のないものにしようとしてる。…それだけは、許せないんだ」
アニスはぎゅっと手のひらを握った。
同じだ。自分もアッシュも、ガイもティアもナタリアもジェイドも。
「ルークが守ってくれたものを、わたしたちが無駄にしちゃ駄目だ。じゃなきゃルークやイオン様がやってきたことが、全部無駄になっちゃう」
「…だが俺は、」
「あんたはルークを喰らったんじゃない。ルークが生かしてくれたんだよ。ルークが全部、くれたんだ。あいつを信用したあんたを信用して」
「だが俺はそんなこと望んじゃいなかった!」
怒鳴るアッシュにアニスも怒鳴り返す。
「しょうがないじゃんなっちゃったものはさ! ルークだって絶対嫌だったよ死にたくなんかなかったよ! あんたがエルドラントでルークを行かせたときみたいに!」
アニスはさらに言葉を続けようとして、そして目の前でほうけたようになっているアッシュに気がついた。そして同時に、どれだけ自分が頭に血が上っていたかも自覚して、自己嫌悪に陥る。ああまた自分は言葉を間違えた。
「…ごめ、」
「謝るな」
アッシュは疲れたように、近くにあった椅子に座り込んだ。そしてゆるゆるとかぶりを振る。
「…謝らなければならないのは、俺の方だ」
アニスはその言葉に目を見開いた。そして首をかしげる。
「…なんで? だって今のは明らかに、」
「俺はお前達からルークを奪った。…どんな形であれ、それは真実だ」
「けど、あんたがそれを望んだわけじゃ…」
「ああそうだな。…だが、それから逃げたってどうなるわけでもない。…あいつが帰ってくるわけでもない」
アッシュは大きくため息をついた。
「だが、これがあいつの託した命だというなら。…俺は、あいつの託した願いを、叶えなければならないんだろうな…」
緑色の目が瞼の下に隠される。遠い何かを想うように、何かに祈るように。
「あいつがエルドラントでの俺との約束を果たしたように。…俺は俺の生を、生きるべきなんだろう」
そうしてアッシュはやっと、穏やかに微笑んだ。辛さを呑みこんで痛さを食いしばって、そして微笑んだ。
ああ綺麗な笑顔だ。みっともなくて人間臭くて、どうしようもなく綺麗な笑顔だと、アニスは思った。
「…俺は礼を言うべきなんだろうな。お前みたいなガキに諭されるのは、非常に不本意だったんだが」
この一言の余計なのさえなければ、と心の中で付け加えておく。まったくもってアッシュらしいが。
だからアニスは意地悪く言った。
「そうそう。おとなしくナタリアにいわれたときに、気がついとけばよかったのに」
「うるさい」
「お礼は三倍返しでいいからv」
アッシュは心底疲れたように、またため息をついた。そんなにため息ばっかりついてるから生え際が後退するんだと言ってやれば、彼はむっとしたように、それが何の関係があるんだと言い返してきた。
その様子を笑いながら、ふと不思議な気分になる。
あの旅をしていた頃は、はっきり言ってアッシュはどっちかって言うと腹の立つ対象だった。何でもかんでも黙ってるしすぐ怒ってどっか行ってしまうし、…ルークを傷つけたいだけ傷つけていたし。けれどどこか天然だったり、自分たちを助けてくれたりして、憎めない奴でもあったのだ。
ルークが出来なかったことを、アニスはしようと思った。ルークにしか出来なかったことは、アニスには出来ないけれど。
そんな風に過去に意識を飛ばしていたら、いつの間にかもうそろそろ退出しなければならない時間になっていた。
キムラスカの王女は忙しいのだ。そして、自分自身も。
部屋から辞去する前に、ナタリアはくすりと嬉しそうに笑って、そうそう、とアニスを呼び止めた。
きょとんとしたアニスの目の前に、小さな白い封筒が差し出される。あけてもいいのかと問えば、ええ是非とナタリアは頷く。
王家の印章の捺された蝋で封された封筒を開けると、中からは二つ折りにした紙が二枚でてきた。その一番上に書いてある文字に、アニスは大きく目を見開く。
「ナタリア、これ」
「ええ。…ふたりでこの国を、…いえ、この世界を、支えていくのです」
幸せそうに微笑むナタリアが踏んできた屍を、アニスは知っている。そして彼女が歩んできた茨の道を。
だからアニスは心からの笑顔で、キムラスカの王女に告げた。
「おめでとう、ナタリア」
ねえイオン様。
わたし達は無力で、そして、どうしようもなく弱い生き物です。
お互いに傷つけあって、けなしあってひきずりあって、そうして生きていくのです。
わたしはあなたに、何かを与えることも傷つけることも、もう出来やしないけれど。
あなたとルークが守ってくれたこの世界で、わたしはわたしにできることを、探して行こうと思うのです。
2006/7/31 アシュナタ+アニス→イオン+ルーク