愛 は 愚 者 の 知 恵
 例えるなら甘ったるい砂糖菓子のようだ。少量なら口を愉しませるそれは、しかし過ぎればあまりの平坦さに飽きてくる。
 それが平穏というものであり、そしてかつて彼には腐るほど与えられていたものだった。

 彼が自分というものに絶望してから、そう長くは経たないうちに、三度死を突きつけられた。
 毒杯を煽れと、世界のために死ねと、言われたそれからは逃げ出せたけれど、三度目の――生まれてから数えるならば四度目に突きつけられた死の宣告からは、逃げることなど到底敵いそうもなく、そして彼は彼自身の命を諦めた。
 どれほど彼を引きとめようとしたところで、彼がレプリカで、彼のオリジナルがいる限り、彼は決して生き延びることはないだろう。
 そのままオリジナルに記憶を奪われ存在を食われるのと、世界のために光と消えるのと、どちらの方がましかと問われれば、彼はどちらを選ぶだろうか。
 彼の笑顔は沢山のものを捨てすぎて、既に人間のそれではなくなってしまったと言うのに。


 ちゅ、と、軽い音を立てて、首筋に小さな赤い痕を落とした。
 これが彼を現世に繋げる楔となるわけでもないが、それでもどうか、生き延びてくれるようにと――願う気持ちをこめていると知れば、彼はどんな顔をするのだろう。
 肩で荒い呼吸をしながら、ルークはそれでも必死に私に腕を伸ばした。
「じぇ、ど、じぇい、どぉっ」
「…ルー、ク」
 ここにいる、いなくならないから。そういう甘い台詞を吐く代わりに、薄い耳殻を軽く食んだ。途端ぴくりと震えて甘い声を上げる少年の耳に、私はさらに毒を注ぎ込む。
「辛いなら、正直に言えば、いいんです」
 ルークはいやいやをするようにかぶりを振った。おそらく既に何を言われているかもわかっていない。繋がったままの体が酷く熱かった。
 こんなときでもなければ本音を言えない自分にはもう笑うしかない。どうやら彼と関わるうちに、少し臆病になりすぎたようだ。
「…いき、ますよ」
 囁きを落として、そして乱暴に彼の腰をつかみあげて揺さぶった。
 たった七年と少ししか生きていない子供は、産声も上げずに生まれたであろうレプリカは、大きな声を上げて泣く。
 辛いならばすがってくれればいいと思うのに、その腕は、シーツにしがみついたまま。
 わざわざ動きを止めてそれを外して、そして自分の背中に回そうとすれば、思いもかけぬ抵抗に出会った。
「…ルーク」
 シーツを離そうとしない少年の名を呼べば、彼はふるふるとかぶりを振って。
「傷になる、からっ…」
 その言葉を咀嚼するのにしばらく時間がかかった。
 完全に理解して、それからもう一度、ルークの手のひらをシーツから剥がす。ルークが声を上げるが、それを無視して骨ばった腕を自分の背中に導いた。
「傷くらい、なんともないですから」
 だからすがればいい。泣き叫べばいい。
 言葉を呑み込んで、潤んだ翡翠の瞳に、ことさら優しく微笑んで見せる。
「私も、こういうことは、慣れているんです」
 だから今更気を使う必要なんて無いんですよ、と言ってやれば、一瞬泣きそうな顔をした少年は、背中に回った腕に力を込めた。
 そうだ、慣れている。いつだって自分は、それが最良の手段であるならば、誰かを切り捨てることなど厭わない。冷たい人間で、あるのだから。
 そうあるべきなのだから。
「ルーク…!」
 熱が、身体を、支配していく。緑色の潤んだ瞳と視線がかち合い、そして唐突に気がついた。
 すがりたいのは、泣き叫びたいのは、自分の方だったのだ。


 夜闇の運ぶ静寂は、平穏と言い換えても差し支えないそれのようであり、それでいてどこか危うい均衡を孕んでいた。
 腕の中で意識を飛ばしてしまった子供は、まだ確かな呼吸をしていて、胸の内に安堵を呼び起こす。
 あどけないその表情は年相応に見え、それでいて艶を帯びたそれは、酷く似つかわしくないものにも見えた。

 (ああ、彼は人間になり、そして生き物であることをやめてしまったのだ。)




「愛は愚者の知恵、そして賢者の狂気」

2006/6/13 ジェイルク

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