アスペラ・ファータ
隣家の住人はひどく朝が苦手だ。
毎朝毎朝壮絶な音と共に、彼は何とか起床を果たす。最初の頃こそ驚いたが、最近は慣れて少し鬱陶しいと思い始めた。
ベッドからあんなに落ちて頭を打って平気なのだろうかと思うのだが、なんでも記憶がないらしいので失くすものもないと笑っていた。
記憶がないというのは多分嘘だが、忘れたいことがあるのは本当だろう。最近少しそう思う。
八つ年上の彼は、この近くで彼の友人と共に教師の真似事のようなことをしている。一度見に行ったが、話はなかなか上手だった。
彼らの教えていることは自分より少し年下の相手を想定しているために、行く必要がないので詳しいことは知らないが、生徒からの人気も上々のようだ。
自分のいとこに当たる十歳年下の少年は大変彼に懐いている。将来は彼を嫁にするのだと馬鹿なことを言っていた気もする。
顔を洗って朝食を終えると、母親が私の名を呼んだ。おそらくまた彼のところに行かされるのだろう。
私は読みかけの本に栞を挟み、返事を返した。
予想通り押し付けられた籠の中には、魚の煮物が入っている。恐ろしいほど好き嫌いの多い彼だが、貰ったものはきちんと食べる。逆に言えば、貰わなければ好きなものしか食べない。母はそれをわかっていて、わざと色々なものを彼に届けさせる。
彼はけして女顔ではないが、どこか幼い雰囲気があるため可愛らしいと言われがちだ。本人はそう言われる度に唇を尖らせるが、その態度がなおさら幼さに拍車をかけていることには気づかない。
母は彼がお気に入りなので、しょっちゅう私を彼の家にやっては食料品や雑貨などを届けさせる。そんなにお気に入りなら自分で行けばいいのにと言ったこともあるが、それじゃ駄目なのよと言っていた。何が駄目なのかは聞いても教えてくれなかった。わけがわからない。
彼はそんな母に、故郷から送ってくると言う布やキルトを届ける。どうやら織物が盛んな土地の出身らしい。
いきなり布を送りつけられても困るんだよなあといつか彼が笑って言っていた。それはたぶんその布で服を作れる誰かさんを探せと言うことなのだろうとは、一応言わないでおいた。
最近時々夢を見る。
彼じゃない彼と、自分じゃない自分とが、他の仲間と共に旅をする夢だ。
旅の始まりは暗く、目を逸らしているうちに自分じゃない自分が犯した罪の結晶が更なる罪を重ね、彼じゃない彼はその罪の重さに思考を停止してしまう。
自分はそんな彼を一度は見捨てるが、紆余曲折の果てに彼を憎からず思うようになり、ついには本気で愛してしまう。
今とは逆に自分の方が彼よりも年上で、彼は今よりもずっとずっと幼い。それゆえに自分はその気持ちを伝えることが出来ず、最後のときを迎えることになる。
旅の終わりに彼は死に、そして彼の元となった人間が死の淵から蘇って戻ってくる。
その事実に、自分じゃない自分はひどく打ちのめされていた。
初めてその日の夢を見たとき、自分の頬に涙が伝っていたのが結構衝撃的だった。それまで泣いたことなどろくになかったからなおさらだ。
あれは本当にただの夢なのだろうか。そんな、いつもの自分なら馬鹿らしいと一笑に付すような考えが、最近頭の中にこびりついてはなれない。
ノッカーで扉を叩くと、数十秒後に扉が開いて中から笑顔の彼が現れた。
母から預かった籠を渡すと、いつもごめんなと言って彼はそれを受け取った。
夢の中の彼とは似ていない。それでいて、何かが同じのような気もする。
「どうかしたか?」
不躾なまでにじっと見つめていたからだろう、彼は不思議そうな顔をして首をかしげた。
何でもありませんよ。私はいつもの笑顔を浮かべた。
そうか、とあっさりと彼は頷いた。夢の中の青年も、そういえば同じような仕草をする。
妙なところばかり同じで、何だか気味が悪い。
茶でもどうかと誘われたが、丁重に断って、私はその足で近所の図書館に向かった。
フォミクリーという技術が昔あった。あるものの情報を元に、レプリカと呼ばれるまがい物を作る技術だ。
数十年前のローレライ解放により、セブンスフォニムの全体数が著しく減少し、ろくに使い物にならない技術になったらしい。
本気で探せばいくら昔とはいえ、少しくらいは資料が出てきそうだが、使えない技術について調べるのは無駄以外の何物でもないから、詳しく調べたことはない。
もっとも最近ほんの少し、その考えは変わってきていた。
というのも、その技術なのだ。夢の中の自分が犯した罪、というのが。
そして、その罪ゆえに、自分でない自分は彼と出会った。
夢の中の自分が死んでから、今の自分になるまでに、おそらく五十年以上ブランクがあった。
その間にまずマルクト帝国が民主化し、次にキムラスカ王国が滅びた。その際、大部分の譜業関連の施設や資料が焼けてしまったらしい。
今の技術水準は、かつて夢の中の自分が生きていたときよりも、だいぶ下に落ち込んでいた。
年寄りには譜業のない世の中なんて、と嘆く者もいる。けれど自分は、そう困った覚えもない。
いくつかの小国に分立した、その中の小さな一つ、昔はケテルブルクと呼ばれた街に、今の自分は住んでいる。
因果なものだと思った。全く因果なものだ。かつて自分が最初に罪を犯した、その地に生を享けるなど。
ましてやその同じ地に、罪の結晶たる青年が存在しているなど、いくらかつての自分であろうとも想像などしていなかったに違いない。
自分だって気がつかなかった。まさか彼が、そうであるなど。
あの日までは。
隣家の住人は朝が苦手だ。だがその日は、どうしてもやらなければいけないことがあると言っていたので、起きていないようなら起こしてやれと母親に送り出され、私は彼の家のドアを叩いた。
返事がなかったので、前日に預かった鍵を使って、家の中に入った。小さな居間を通って彼の寝室に入ったときに、その小さな声は、私の耳に届いた。
それは謝罪だった。
ごめんなさいごめんなさいと、青年の薄い唇が、何度もうわごとを繰り返した。まるであの赤い髪の青年のようだと思って、私の足は凍りついた。
彼は訳ありの人間だと言うことは聞いていたから、もしかしたらそのことかもしれない、と私は思った。
けれど彼は言ったのだ。
滅ぼしてごめんなさい、殺してごめんなさい。
帰ると言ったのに嘘をついてごめん、ティア、と。
確かにそう言ったのだ。私は何もいえなかった。指一本、動かすことすら出来なかった。
ひとりひとり、かつての仲間の名前を呼び、そして謝罪を繰り返す。
そして最後に彼はこういった。
俺とさえ出会わなければ、ジェイドはもっと幸せになれたのかな。
私はそれ以上聞いていられずに、その家を飛び出してひたすら走った。
後のことは良く覚えていない。彼は結局その後自分で起きたらしく、その翌日、起こしにきてくれたみたいなのに起きなくてごめん、と、彼は謝ってきた。
私はいいえ、としかいえなかった。彼と目を合わせることが出来なかった。
本当は冗談じゃないと叫びたかった。
どれだけ昔の自分が彼に救われていたか、教えてやりたいと思った。
けれどそれを言い出すことも出来ずに、臆病な私は、黙って彼の言葉を頭の中で繰り返すしかなかった。
どうしてこんな記憶を、自分は見せられてしまうのだろう。
図書館でしばらく本を読んでいると、前の席に誰かが座った気配がした。
ちらりと視線を上げて、そのまま目を見開く。
彼はにこりと笑った。
「朝はありがと」
「…いえ」
私はそのまま本に視線を落とした。けれどもう、頭の中に文字が入ってこない。
ぱらり、とページを捲る音が、ひどく空虚に聞こえた。
「…なあ、最近ちゃんと寝てる?」
唐突に彼がそんなことを言った。
「寝てますよ」
平静を装った声音で、私は答えた。嘘だ、と責めるような口調で、彼が言った。
「目の下、ひどい隈になってる」
「そうですか?」
「しらばっくれたって駄目だからな」
「人聞きの悪い。ただ疲れが溜まっているだけです」
「本当に?」
「本当です」
彼はしばらく黙った後、は、と息を吐いた。
「…なあ」
「なんですか」
「俺、何かやったっけ」
内心の動揺を隠すのは得意だ。ポーカーフェイスも、得意だ。
「何かしたんですか?」
「え、いや、してない…と思う。じゃなくて」
私は本に目を落としたまま、じゃあなんです、と訊きかえした。
「…いや、お前最近、俺の顔を見ないから」
彼は相変わらず、無神経に核心を抉る。私は出来るだけ軽い口調で、男の顔を見て何が楽しいって言うんですか、と言ってやったら、彼は嫌そうな声を出した。
「…お前のいとこが女好きなのは、まさかお前を真似してるからか」
「そう見えますか?」
「…見えねえな」
「でしょうね」
「…お前と話すと、なんか時々物凄く疲れるな…」
「おや、酷い言い草ですねえ。そんなに疲れるなら、どうして話しかけてくるんです」
そこではじめて私は本から視線を上げた。彼は困ったように笑う。
「…なんでだろ」
聞くな。と私は言ってやりたかったが、その代わりに別のことを聞く。
「あなたこそ、最近妙に忙しそうですが。…何かあったんですか?」
彼は少し驚いたような顔をして、それから少し寂しそうに笑った。
そうか知らなかったのか、と言って、彼は私に囁く。
「俺、もうすぐこの街を出るんだ」
頭を鈍器で殴られたような気がした。
「…どうして」
どこか声が震えていやしないだろうか。そんなことも気にすることも出来ずに、私はほとんど睨むような視線を彼に向けた。
八つ当たりに近い怒りを向けられて、彼は少し戸惑ったように答えた。
「どうして、って。…故郷に帰らなきゃいけなくなったから」
「何でですか」
「母さんが病気でさ、俺か兄さんかどっちかが帰らなきゃならなくて。でも兄さんは結婚してて、そうそう簡単に動けないから。だから俺が」
「駄目です」
彼はきょとんとして、私のほうを見つめてきた。だが私は私で、たった今自分が言った言葉が信じられなかった。
「…いや、そんなこと言われても」
彼はもはや困惑を隠さなかった。けれど、私のほうも止まれない。
「あなたはまた、私を置いていくんですか」
「…また?」
彼が怪訝そうに眉を寄せる。駄目だここで止まらなければ、とどこかで理性が邪魔をする。けれどそれは少し弱すぎた。
「…行かないでください、ルーク」
彼は大きく目を見開いた。
図書館で彼と別れて、私は家路についた。
思考は完全に停止していて、けれどそれを再び動かす方法も見つからない。
先ほどの彼との会話が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
彼はどうしてその名前を知ってる、と、掠れた声で問うてきた。
夢で見た、と答えると、ふるふると彼はかぶりを振った。そして訊いてきた。
お前はジェイドなのか。私は頷いた。
すると彼はいきなり、大きな瞳からほろりと涙を零した。
ぱたぱたと水滴を、いくつもいくつも木製の机の上に落としながら、彼は言った。
どうして。
それはむしろ私が聞きたかった。
いつ彼がこの街を発つのか、母親に聞くと、彼女は明日だと答えた。
彼女はずっと前から知っていたらしい。何故言ってくれなかったのかと聞けば、とっくに知ってると思ったからだと返された。
「だってあなたたち、仲が良かったじゃないの」
そう言われてから気がついた。
彼がこの街に来てから、そういえば何だかんだで、私は彼と行動を共にすることが多かった。
それを不思議に思ったことすらなくて、そのことがかえって今となっては不思議だった。
明日は見送りに行きましょうねと言われたが、それさえもろくに頭に入ってなどいなかった。
その夜私は、家の外に出た。
降り積もる夜の雪は、淡い月の光を浴びて青白く光る。
吐き出す息は白い。そうしてずっと雪が積もるのをみていると、やがて彼がやってきた。
ルーク。心の中で名前を呼んだ。
「…何でここに」
彼は不思議そうに、そう訊いてきた。私は笑顔で答えた。
「あなたが来ると思ったからですよ」
そういって彼を見ると、泣き笑いのような表情をしていた。ああまったく。
「隠し事をするなんて、悪い子ですねえ」
そういうと、彼はきょとんとした表情をして、それからくすりと笑った。
「…俺より年下の奴に、そんなこと言われたかねーよ」
そして口を尖らせてみせた彼に、確かに、と返して、私も笑う。
「ですが、酷いとは思いませんか。何でもう少し早く言ってくれなかったんです」
う、と彼はうめいた。眉を寄せて、困ったように笑う。
「…何となく、時期を逃しちゃって」
彼のごまかしは、けれど私には通用しない。
「まったく。…聞かれなければ、黙って行く気でしたね」
そう問い詰めてやれば、彼は、やっぱりお前にはかなわないなと呟いた。
そして彼は空を見上げた。私も彼に習って、同じように空を見上げる。
黒い空にまだらに灰色の雲がかかり、ひらひらと白い雪が降る。
冷たい色の月が、遠くにぽかりと、夜空に穴を開けている。
「…お前も見るんだな。あの夢」
ぼそり、と彼が言った。
いつから、と彼は聞いてきた。少し前からですと答えると、そうか、と彼は頷いた。
「いつから俺が、ルークだって知ってた?」
「あなたが私に、朝早く起こすように頼んだ日に」
私はちらりと彼を窺った。肩に、そして長い髪に、白い雪がうっすらと積もっている。
白い顔はまるで蒼褪めた病人のようだった。彼はふと口元をゆがめた。
「…そっか。俺、寝言言う癖あるらしいしなあ…」
あれを寝言などという軽いもので片付けていいのか、私は少し悩んだ。けれど他に的確な表現も見つからない。
「…俺は生まれたときからなんだ。生まれたときからずっと、あの夢を見てる」
彼は、そういって私のほうを見た。ルークとは似ても似つかない顔が、ルークと同じ笑顔を浮かべる。
それは奇妙な光景だった。
「だから俺は、俺がなんなのか、ずっとわからなかった。家族って言われても他人のような気がしたし、鏡を見ても、何だか俺じゃない他人を見てるような気がするんだ」
彼はそういってまた空を見上げた。一瞬泣いているのかと思った。
「俺はオリジナルで、ルークはレプリカで、俺はルークで、だけどルークじゃなくて。俺は誰なのか、ずっとわからなかった。俺が生まれたときにはとっくにジェイドもティアもガイもアッシュもナタリアも死んでて、それどころかキムラスカもマルクトもなくて、ただの夢だって思っていたかった。…けど」
彼は笑った。哀しそうに笑った。
「俺の手は血まみれで、その罪を贖う間もなく死んで。…だからきっと神様が、俺にそれを贖わせるために、この記憶を持たせたんだって。――やっと、わかった」
天から目を背け、彼は彼の両手に視線を落とす。皮肉げに吊り上げられた口元は、まるで何かを飲み込んでいるようだった。
「最近って言ったけど、俺に会ってからなんだろう。お前が夢を見るようになったのは」
疑問というよりは、どこか確信めいたものがある口調だった。彼は昏い瞳をこちらに向けた。
「…どうしてそう思うんですか?」
そう聞けば、彼はふっと視線を落とした。
「…イオンが、そうだったから」
苦いものを吐き出すように、彼はどこかひび割れた声でそういった。
イオン。かつてフォンマスターと呼ばれた少年。自分の罪の、もう一つの証。
「…彼も転生しているんですね」
「ああ。違う名前で、違う人間として。…なのに俺が、あいつと出会ったせいで…」
それきり彼は黙り込んでしまった。最初に彼と会った頃の、彼の表情もそういえばこういうものだった。
何かを押し殺した、奇妙な笑顔。それがどこか自分の空虚な表情と似ていて、だから最初の頃、自分は彼が嫌いだった。
けれど、今は。
「…それなら私も償わなくてはならないでしょう。あなたの罪は、元はといえば、私が生み出した罪なのだから」
ルークははっとしたように顔を上げた。
「違う、そんなつもりじゃ」
「あなたにそのつもりがなくても。…どっちみち、ここまで知った以上、私はあなただけに全てを押し付けるべきではないでしょう」
私は笑って見せた。いつものように。
「どうぞ、母君の看病なり何なり行ってください、ルーク。どちらにしろ途方もない罪だし、転生させてまで償わせようとする神だ。幸い私達にはまだ時間があるのですから、少しくらいなら待ってくれるでしょう」
「…っ」
肩を小刻みに震わせて、彼は顔をゆがめた。それを気にせず、むしろ煽る様に、私は続ける。
「私はあなたを待っていますよ。…だから今度こそ、戻ってきてくださいね」
彼の膝が雪の上に崩れ落ち、わなわなと震えながら、いやいやをするように首を振った。まるで小さな子供のようだ。
私は彼の近くまで歩いていって、同じ視線の高さまでしゃがむと、彼の長い髪を掬い上げた。
彼が涙に潤んだ瞳をこちらに向ける。私は笑みを深くして、酷薄な言葉を紡いだ。
「…次に約束を破ったら、承知しませんから」
次の瞬間、彼の涙腺は決壊した。そして生まれたばかりの赤子のように、大声をあげて泣き出した。
夜空に響き渡るその声は、けれど暗い闇に呑まれて、雪の中に閉じ込められたのか。遠く明かりのついた家屋から、誰一人として出てくる気配もなかった。
私はそのことにどうしようもない満足を覚えて、そしてひたすらに彼の髪を梳く。
やっと手にした、どうしようもなく欲しかったものは、とてもとても冷たく冷え切っていた。
ああ、きっと自分は彼を追って、この場所に生を享けたのだ。
――この過酷な運命の、わずかばかりの代償に。
2006/5/20 ジェイルク…?