最 後 の 幻

た っ た 一 つ の 願 い 事
( き み の こ え を き き た い よ 、 )




 アッシュの知る限りはじめて、キムラスカを正式に訪れたその女は、途切れがちな会話の合間にこんな話を持ち出した。
「…大佐が、子供を拾って育てているんだそうよ」
 アッシュは、昨年妻となったばかりの女性と顔を見合わせた。
「あの、大佐がですか?」
「ええ。一人で」
「そうなんですの…何だか、想像しにくい図ですわね」
 その言葉に、口には出さないものの、アッシュも心の底から同意した。しかし顔には出ていたらしく、ティアは少し笑って、こう付け足した。
「私も会ったことはないのだけれど、アニスの話だと、十五歳ぐらいの男の子なんだそうよ」
 とても礼儀正しくて良い子だったらしいけど、そういって彼女は口ごもった。珍しく歯切れの悪い様子に、ナタリアが首をかしげる。
「…何か、問題が?」
「いえ、…それが。…記憶が、無いんですって」
「…記憶が?」
 痛ましそうな表情になるナタリアが、その言葉を聞いて思い出したであろう人物は、アッシュにも容易に想像がついた。生まれてからの七年間のほとんどを、記憶喪失として扱われてきた、そして最後には――アッシュはそこまで考えて、振り払うように会話に集中する。
「そう。自分が生まれてから、十五年間分の記憶がすべて」
「…レプリカ、ではないのか?」
 聞けば、彼女はかぶりを振った。
「ええ、違うんだそうよ。両親もはっきりしているし、検査してみたら普通の人間と同じだったって、大佐が言っていたらしいわ。ただ、ちょっと気になるところがあって…」
 やけにためらうティアに、アッシュは僅かに苛立ちを覚える。そして同時に、違和感も強くなった。
「何かあったのか?」
 とげとげしくなりすぎないように気を使いながら聞けば、ティアの蒼い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。何年ぶりだろう、この瞳を見るのは。
 アッシュは、この蒼い瞳が苦手だった。自分から目を逸らす前に、彼女の方が視線をナタリアのほうに向けてくれて、アッシュはほっと息をついた。
「名前を、呼んだらしいのよ」
「名前?」
「アニス、って。初めて会ったばっかりだったのに」
 言いながら、黒髪の女性が部屋の中に入ってきた。こちらは時々、バチカルにもローレライ教団の仕事で訪れてきている。
 ノックもなしに入ってきた彼女に、ティアは柔らかい笑顔を向けた。
「アニス、仕事は終わったの?」
「うん、ついさっきね〜。そんでティア呼びにきたら、リヒトの話してたから」
「リヒト?」
 ナタリアが訊くと、アニスは、ああ、と頷いた。
「大佐が拾った子供の名前。リヒト・オニキスって言うんだってさ」
 ジェイド・カーティスは、七年前と同様に、昇進を固辞し続けている。しかしながら、命を賭けた英雄のひとりであるのだから国の威信がどうたら、と説かれて、しぶしぶながら准将に昇進していたはずだ。
 彼が未だに軍に居続けるのは、おそらく親友である皇帝のためなのだろう。大分落ち着いてきたとはいえ、まだマルクトの国内は、キムラスカと同様不安定だ。それが収まるまでは、彼は軍人であり続けるのだろう、とアッシュは思った。
「大佐があの子拾ったとき、たまたまフローリアンと一緒にマルクトに行ってたから。びっくりしたよー、こっちの顔見ながら倒れるんだもん」
「顔を見ながら、ですか?」
 ナタリアが小さく首をかしげる。それは随分器用な倒れ方だ。
「そーそー。しかも目が覚めたら記憶ないし」
 倒れたときに思いっきり痛そうな音がしたから多分あれが原因じゃないかなぁ、とアニスが言うと、アッシュは嫌そうに顔をしかめた。
「お前、本当にそいつに会った事がないのか?」
「ある訳ないじゃん。あれが正真正銘初対面。少なくとも、私から見たらね」
 名前知ったのだってジェイドと一緒にその子の身辺調査したからだしさ、と彼女は口を尖らせた。
「失礼な話だよね〜。こーんな美女捕まえて、目の前でぶっ倒れるんだから」
「でもそれで、どうして大佐はその…リヒトさんを、育てる気になったのでしょう?」
 それがアッシュにも不思議だった。この世界において、孤児とは決して少ない存在ではない。そのこと自体も問題だが、しかし、たまたま出会ったその一人ひとりを片端から育てる余裕は、いくらジェイドといえども無い筈だ。それにそもそも、基本的に人に深く関わることを是としないジェイドが、そういった提案を自分からするとは思えなかった。
 しかしその答えは、いとも簡単にもたらされた。
「八年前の孤児なんだって」
 どこかぶっきらぼうにアニスは言った。はたり、と気付いて、ナタリアが口を閉じる。
「…アクゼリュスに、親が行ってて。風邪引いて残ってたリヒトだけ助かったんだって」
「…そう、でしたの。…他のご家族は」
「駆け落ち同然の結婚だったらしくて、他の家族もわからないんだってさ。だから七歳のときからずっと、ひとりで生活してたんだって」
 重い沈黙が、部屋の中に降りた。
 アクゼリュスの被害者は、八年前の事件の傷跡そのものでもある。
 ジェイドがその少年を放っておけなかったのは、自らの罪の意識に動かされたからだろうか? アッシュは自問した。けれど、何か違うような気がする。しかし――
 彼は、自分のレプリカであった青年と、並々ならぬつながりを持っていた男だ。現世に戻されたときに託された記憶には、信じられないほどの変化を遂げたあの男の姿が、旅の終わりに近づけば近づくほど、数も多く、そして深く刻まれていた。
 …レプリカ。
 ルーク。その名を呼んでも、答えるものはもういない。


 ティアとアニスは日が暮れる前に、あらかじめとっておいたらしい宿の方へと戻っていった。城の中に部屋を用意させるというナタリアの申し出はやんわりと断られ、彼女達は城門をくぐる。どこかほっとしている自分がいることに、アッシュは軽い自己嫌悪を覚えた。
 彼女たちが去って行った後、ナタリアもその見送りに行き、アッシュは一人部屋に残された。大きな窓の向こうには、沈み行く太陽が見える。
 夕暮れのバチカルは美しい。喧騒に溢れる下界はこの場所からでは見ることは出来ないが、空に近い分、周りの建物に邪魔されずに落ちる陽を鑑賞することができる。
 父上、と幼い声がした。下を見下ろせば、夕暮れに赤く染まった髪の少女が、キラキラとした瞳でこちらを見上げていた。
「父上。母上が、そろそろ夕食にいたしましょう、と仰っておられます」
「そうか。…すぐ行く」
 考え事に耽っていたせいで、もうそんな時間になっていたらしい。気配を消すのがうまいわけでもない自分の娘が、こんなにも近づいてきていたのに気付かなかったとは、よほど深く思考の中に埋没してしまっていたようだ。
「エステル」
 名を呼べば、少し先に歩いていた少女は、くるり、と振り返った。
「はい? どうか、なさいましたか?」
 僅か五歳だというのに、どこか大人びた話し方をする少女は、大きなみどりいろの瞳を不思議そうにこちらに向けてきた。
「…いや、何でもない」
 かぶりを振れば、彼女はますます驚いたように目を見開いた。が、深く問うこともせず、そうですかと答えたきり、そのままくるりと前に向き直り、止めていた歩みを進めた。
 少し前までは、城を逃げ出したいといって憚らず、何度か脱走を試みてもいた子供とは思えない仕草だ。
 あの頃の、あのあどけなさを殺してしまったのは何だろう。それは王族としては喜ばしいはずであるのに、親としては寂しいのは何故だろうか。
 二つ分の靴音が、冷たい石造りの廊下に反響して消えていく。
 小さくため息をついたところで、目の前の赤い髪が、以前のように振りかえることはもうないのだった。

 その夜、アッシュは、突然飛び込んできた乱暴なノックの音にたたき起こされた。
「アッシュ! 起きてくださいませ!」
「…ナタリア? どうかしたのか?」
 むくりと身体を動かす。城の中が騒々しい。気配には敏感な筈の自分が何故気付かなかったのだろう、アッシュは少し不思議に思った。きいん、と小さな頭痛が残っている。
 その正体を思い出す前に、ドアの向こうのナタリアが、ほとんど悲鳴のような声で叫んだ。
「エステルが、いなくなってしまったんですわ!」
 その声で跳ね起きて寝室のドアを開ければ、彼女は酷く焦燥した顔で縋り付いてきた。
「今、城下を必死で探させているのですけれど…!」
「落ち着け、ナタリア」
 俺はナタリアの肩をつかみ、その顔を覗き込んだ。鳶色の瞳が心配そうに揺れる。
「大丈夫だ。いくらエステルが大人びてるとはいえ、まだ五歳の子供の足だ。ただでさえこの街は広いんだから、そう遠くまでいけるはずがない」
 しかし、警備の兵は一体何をしていたのだろう。心の中で毒づくと、部屋の中に別の人間が現れた。
「姫君が見つかりました!」
「そうか。それで、どこにいた?」
「それが…昇降機で、足を滑らせたらしく」
「…何だと?」
 さあ、と血が引く。まさか。
「ともかく、医務室にお越しください!」
 向かっている間に聞いた話では、どうやら警備の兵に見つかり追われている間に、彼女は誤って足を滑らせたらしい。
 幸い奇跡的に命に別状はないらしいが、酷く頭を打ったらしく、意識がまだ戻らないのだという。
 部屋に駆け込めば、宮廷付きの医官が一つのベッドの前でこちらを見ていた。
「こちらです」
「わざわざ夜中にすまないな。…それで、エステルは」
「お命に別状はございません。目立った外傷も無く、打ち身くらいで済んでいます。ただ、意識の方がまだお戻りになっていません」
「そうか…」
 不安げにエステルの手を握るナタリアが、小さく小さく名前を呼んだ。
 その瞬間、ぴくり、と少女の閉じられた瞼が動いた。みどりいろの瞳が、薄い瞼の下から現れる。
 その目はしばらく周囲を見渡し、こちらを認めるなり、ごめんなさい、と小さく呟いた。
「エステル…! 良かった」
 ナタリアがほっとしたように、エステルの身体をかき抱く。エステルはもう一度、ごめんなさい、と、今度ははっきりした声で謝った。
「…何故こんなことをした?」
 問いかければ、びくり、と小さな身体が震えた。アッシュ、とナタリアに咎めるように名を呼ばれ、我に返った。
 怯えさせてしまったのだろうか、と心の中で焦るが、叱るときには叱るべきだ。ナタリアは少しエステルに甘すぎる。
 搾り出すような声で、エステルは答えた。
「いかなくちゃいけないって、思ったんです」
「何故だ?」
「呼ばれている、気がしたから」
 要領を得ない答えに、自然と表情が険しくなる。
「…誰にだ」
「赤い髪のおとこのこ」
 ずっと寂しそうに泣いてたから、迎えに行かなくちゃいけないと思って、とエステルは言った。
「ずっと誰かを呼んでたのに、誰も気付かなくって。だから気がついた私が行かなくちゃいけないと思ったんです」
 思わずナタリアと顔を見合わせた。
「どなた、でしょう? 赤い髪、といえば、きっと王族でしょうけれど…」
 エステルは、ためらうように口を開いた。
「ルーク、って。いっしょにいた誰かが、そう呼んでた」
 息を呑んだ。隣のナタリアも、同じように身体を凍らせる。
「…あいつ、が? 居たのか? どこに?!」
 思わず叫ぶと、脅えたようにエステルがびくりと身をすくませた。
「もう、いません。…もう、どこにもいないんです。こんな危ない目にあわせてごめんなって、謝って行っちゃったんです」
 私が勝手にやったことなのに、と涙声でエステルが呟いた。
「私が暗いところで倒れてたら、助けてくださったんです。道を教えてくれたんです。こっちにはまだ来たら駄目だよ、って。お前の父上と母上が悲しむだろって」
 困ったように笑って、私の手を引いてくれたんです。泣きながら、エステルは続けた。
「それから、伝言も貰いました。お前らがあんまり悲しそうな顔するから、俺はいつまでたってもここから動けないじゃないかって、怒ってました」
 その言葉に衝撃を受けた。どこか身勝手で、あまりに彼らしい言い草。動揺する大人たちの心中も知らず、少女は続けた。
「俺はもう、別の場所で、俺じゃない俺としてちゃんと生きてるから。だからもうこれ以上悲しむなって、そう言ってました。それから、子供をこんな目にあわせてごめんって」  アッシュはかぶりを振った。何を否定したいのかわからない、けれど。しかし。
 エステルは、けれどそれで私にはわかったんです、と、言った。
「…父上、あの人が、この世界を救ってくれたっていう、もう一人の、父上、なんですね?」
 じっと、真っ直ぐにみどりいろの瞳がこちらに向けられた。涙で潤んだそれは、しかしどこか誇らしげで、きらきらと光を放っているようだった。
「父上が、本当はルークって言う名前なのに、母上とかアニスさんとかジェイドさんには、アッシュって呼ばれてるのは、あの人の名前をとっちゃいたくないからなんですね?」
 問いかけというよりは断定の口調で、エステルはそういってきた。アッシュは自分の子供ながらに、その聡さに舌を巻く。
「母上や父上が、からっぽになったお墓の前で悲しそうな顔をするのは、あの人のためなんですね」
 エステルは寂しげに、そして嬉しそうに、笑った。

「父上、わたし、あの人に会えてよかった」

 アッシュはそれ以上エステルの話を聞いていられずに、病室を飛び出した。エステルがびっくりしたように何かを叫んでいたが、それすら聞こえなかったふりをしてがむしゃらに走った。
 走って走って、広い廊下の行き止まりでやっと止まった。
「――あの、馬鹿が!」
 思い切り壁を殴りつけた。握った拳が痛む、それすらも気にならないほどに、アッシュは動揺していた。
 ルークの記憶を渡されて、ずっとそれを抱えて生きていた。ルークの背負ったはずの痛みや苦しみまでも逆に背負わされて、いっそのこと死んでしまいたくなったことだって何度もあった。そしてそれより、何よりも腹立たしかったのは、一度死んだはずの自分が、自分の場所を奪ったレプリカをあれほど憎んでいたはずの自分が、逆に彼の生きた場所を奪ってしまった事実だった。
 それなのに彼は悲しむなという。
「…屑がっ」
 もう一度壁を殴りつけた。骨までがじんじんと痛んでいるようだった。けれどそれすら、心の中に吹き荒れる嵐にかき消される。
 うれしいのかかなしいくやしいのかさびしいのか、色々な感情がごちゃ混ぜになって、アッシュの中で暴れてはじける。
 血を吐くように、彼は祈った。

「…生きてるなら、生きているというなら、顔ぐらい見せに来い…!」

 その願いが、形を変えて叶うのは、もう少し先の話だ。



初出2006/5/3*2006/10/15改訂 アッシュとナタリアとエステル

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