最 後 の 幻
ガイは絶望した。
彼の視線の先には、白いセレニアの花の中、赤の髪をした青年が、ガイの愛するたった一人の姿を模して、何ともいえない表情を浮かべてただ立っていた。
笑顔の出来損ない。けれど彼は怒ることもできないようだった。それはそこにいた誰もが、同じように。そしてガイ自身も。
なあ冗談なんだろうルーク。お前はただアッシュのふりをしているだけなんだろう? そんなことをして、誰かが喜ぶとでも思っているのか、馬鹿だなあお前。
そう言えたならどれだけ良かっただろうか。
ただ、戻ってきた彼に怒りを露にするには、ルークだけをひたすら待つ二年間は少し長すぎた。そうして今、このこころには、彼を失った空白だけが取り残される。
なあ、ルーク。
これはただの冗談だって、それでなければ悪い夢なんだって、頼むから言ってくれよ。
全 て が 終 わ る 日
( な か っ た こ と に は で き な い け れ ど 、 )
ローレライが地核より解放されて二年が経った。エルドラントへ戦いに赴いていた面々がアルビオールでダアトに戻ったときに知らされたのは、驚くべき事実だった。
天へ立ち上る光の柱と共に、全国のレプリカ達もまた、ほとんどが光となって消えてしまったというのだ。
慌てて向かったベルケンドで、研究者達は、その原因はおそらく、第七音素のかたまりであるローレライに引き寄せられ、彼らの音素が乖離してしまったせいだろうと言った。
思えばそれもまた、その後に起こる不吉の予兆だったのに違いない。
ガイはその後グランコクマに帰り、そしてすぐさま、タタル渓谷に、バチカルにあるルークの墓を移動させるように要請した。
彼は空っぽの墓には興味はなかった。ただその下には、ルークの七年分の日記帳の最後の一冊が、空の棺桶の中に遺体の代わりに隠されていることを知っていた。
誰一人、そのページを繰った者はいなかった。その理由は、他の人々はどうだったかは知らないが、ガイに関して言えば、もしそれを開いてしまえば、彼が永遠に帰ってくることがなくなるような気がして怖かったせいだ。
ガイの発案はキムラスカとマルクトを丸ごと巻き込んだ問題になった。マルクト側からすれば彼はアクゼリュスを滅ぼした大罪人であり、キムラスカにとっては繁栄の預言(恐ろしいことに未だにそれだけを信じているものもいた)を引っくり返した大罪人であり、しかしどちらにとっても、世界の全てを救うために文字通り生命を差し出した英雄でもあった。
結局それは、タタル渓谷近辺を中立地とすることで決着がついた。その代償には、運良くというべきか、フェレス島が、先のレプリカ消滅の際に直接ローレライがその中を通ったホドよりはかなり崩落の度合いが低く、少なくとも人が住める程度ではあったので、そこを新たにマルクト領とすることになった。
そしてガイ自身は、キムラスカとマルクト両方の血を継いでいるということ、そして何より亡くなったルークと縁が非常に深かったということから、その中立地帯の管理を任されることになった。直接の管理は他者に任せ、帝都の屋敷に居ても良かったのだが、彼はそれを望まなかった。
いつでも戻って来い、そう出立の日に告げた皇帝に、ガルディオス伯爵は微笑んだ。
ええ、いつか。
そのとき皇帝とその懐刀は、伯爵にはもう帝都に帰る気がないことを理解した。
ガイがルークの墓守になって最初にしたことは、その墓を暴くことだった。
あの日ティアが腰掛けていた岩のあった場所に、ルークの墓は移された。誰も居ないことを確認してから、美しく整えられた墓土を醜く掘り返し、棺桶の中にあった一冊の、ぼろぼろのノートを取り出した。
ガイは彼の日記がどうしても欲しかった。他にはほとんど何も残さなかった『彼』の痕跡が、一番よく残っているのがそれだったから。
ざあ、と風が吹き、セレニアの花びらが舞う。空の棺桶の中に白い花びらが、静かに積もっていく。その中でひたすらガイは、ルークの残した筆跡を追った。
『俺の人生の本当の始まりにはこの花があった。みんなに言ったら怒られるかもしれないけど、終わるときにも、そうであってくれたらいいのにと思う』
ガイはそこまで読んで、天を振り仰いだ。日付は彼が瘴気を中和する前だったから、もう随分前のことになる。
ルーク。そんなことじゃ、俺達は怒りやしない。俯いてばかりで俺達の気持ちを無意識にはねつけるあの頃のお前に、俺達は勝手に苛立って勝手に怒ってばっかりだった。
本当にお前が欲しがっていたのが何か知っていた筈なのにそれを差し出さずに、お前にだけ全てを求めた。
いや、違う。お前が欲しがっていたのは俺達に差し出せるものじゃなかった。けれど俺達は、お前がそれをもう持っていると気付かせる言葉を、お前にやることはできなかった。
なあ、もう勝手に怒らないから。お前に全てを押し付けたりはしないから。
そう言ったならお前は、戻ってきてくれるか。
それから数年が経った。相変わらずガイは、グランコクマに帰っていない。
白い花に包まれた黒い墓標の向こうに、ちらちらと輝く明かりが見えた気がして、ガイは目を瞬かせた。
波が月光を反射しているのだろうか。しかしそれにしては近すぎる。
ガイは随分昔に掘り返して、今度こそ本当に空っぽになったルークの墓の横を通り過ぎて、光源に近づいた。
その金色の光は、どこか自分の知る男に似た表情をした、少年の姿にも見えた。彼は笑って、そうしてその足元を指差した。
ガイはその指先に従って、少年の足元を見た。そこには、金色の少年の姿よりはずっと確固たる色彩を持った、鮮やかな赤橙色があった。
少年の体から溢れては消え、溢れては消える金粉が、花に埋もれたもうひとりの少年の上に降り注ぐ。
ガイは震える唇で、その名を呼んだ。
「ルー…ク」
『次はないよ』
突然頭の中に、ハスキーな低い声が直接流れ込んできた。
それは目の前の少年の声なのだと少し後に気付いて、ガイは未だに現状を把握しきれないままの頭で、首をかしげた。
「…キミは」
『僕はもう疲れた。さっさと空に還りたいのに、あんた達が邪魔をする。だからこいつは置いていくよ』
「え、」
言いたいことだけをさっさと言って、金色の幻はかききえた。
けれど赤橙色の髪をした少年の姿はいつまで経っても消えなかったので、ガイはようやく、それが本物だということがわかった。
恐る恐るかがみこんで触れれば、その頬は温かかった。つう、と一筋涙が指先を撫でていったので、ガイは驚いた。赤い睫の先についた雫を拭ってやれば、ほっとしたように少年は息をついた。
「…ルーク」
短い髪を梳く。その滑らかな感触に、ガイはやっと、あるべきものが自分の傍に戻ってきたような気がした。
しばらくずっとそうしていたが、いつまで経っても彼が目を覚まさないので、ガイは少し不安になってきた。
まさかこのまま、二度と目を覚まさないのではないか。そんな思いが、頭の隅に生まれる。
ガイはとりあえず自分の家につれて帰ろうと、少年の背と膝の下に腕を差し入れ、そうっと抱き上げた。そうしてはじめて、彼は、少年の姿が、自分が最後に彼に会ったときよりも幼いものであることに気づいた。その身体はひどく軽かった。
両手が塞がってしまっているので、魔物に遭わないように慎重に彼は渓谷を下る。時々確かめるように顔を近づけると、腕の中の少年は、いつでも穏やかで規則正しい呼吸をしていた。
渓谷も出口に差し掛かったときに、少年はん、と声を上げた。もうだいぶ明けかけた空の端が、うつくしい赤色に染まっていく。
「ルーク?」
声をかけると、少年はうっすらと目を開いた。一度瞬きをして、それからじっとガイの顔を見つめる。
瞼の下に隠れていたのは、あんなにも焦がれた翠だった。どこか戸惑いながら、それでも嬉しそうな自分の顔が、濡れた瞳に映っている。
少年は不思議そうに、首をかしげた。
「…誰?」
その瞬間ガイは呆然として、危うく少年を落っことしそうになった。慌てて抱きなおして、それからもう一度、少年の顔を見つめる。
「…ルーク?」
「それが、あんたのなまえ?」
何の疑いもなくそう聞いてきた少年に、ガイは驚いて、いや違う、と答えた。
「それはお前の名前だろう?」
そう言ってやれば、彼は不思議そうに首をかしげた。
「俺は、ルークなのか?」
「…そうじゃないのか?」
ガイはあの日の絶望を思い出し、暗澹たる気分になりかけて、少年を恨めしそうな目で見つめた。まさか再び取り返したと思って絶望させられるのか。
少年はわからない、とかぶりを振る。
「…わからない。覚えてない、なんにも」
「…、…ルー、ク」
「あんたは俺のことを知っているのか? 俺は誰なんだ?」
そう言ってやや不安げな表情をした少年に、別の声がかぶさった。
『俺は誰なんだろう』
ガイの脳裏に甦ったのは、同じ声、同じ顔の、哀しそうな少年の声だった。
はじめに戻っただけなのかもしれない、と唐突にガイは思った。
もう一度、自分はルークと、最初からやり直せるチャンスを手に入れたのかもしれない。
ガイは少年を安心させるように、できるだけやわらかくわらった。
「俺はガイ。お前はルーク。俺達は、親友なんだ」
「…親友? まだ、お互いのことも知らないのに?」
ルークが首をかしげる。ガイは力強く頷いた。
「ああ。だから、これからいっしょに、お互いのことを知っていこう」
2006/10/8 ガイとルーク(とリヒト)