家庭の事情 第二楽章
その瞬間、その場の誰もが、絶句した。
最初に立ち直ったのは、やはり女は強いのだろうか、ナタリアだった。口元に手を当てて、のんきに目を見開いている。
とりあえずアッシュは、目の前でにこにこと嫌味に笑っている男に、剣先を突きつけてやることにした。
家庭の事情 第二楽章
「てめーひとんちの屑に一体何しくさってんだコラァ!」
「おや、第一声がそれですか。なかなかに酷いですねえ」
アッシュの咆哮をさらりと流しながら、私は悲しいですよとジェイドは嘯いてみせた。
「ちょっと子供が出来たといっただけじゃないですか」
ジェイドの挑発するような言葉に、アッシュは沸点を越えっぱなしである。
「結婚すらしてないくせにガキ作ってんじゃねぇ!」
「おや。…ひがみですか?」
「てめぇっ…!」
アッシュが耳まで真っ赤に染めて、口をぱくぱくと開閉させる。
「大佐…」
流石に頬を朱に染めたナタリアの非難に、ああすみませんとジェイドは心のこもらない謝罪を返した。
「何はともあれ、おめでとうございます。だから今日はルークがおいでにならなかったんですのね」
「ええ。まだ安定期ではありませんから、何かあったら大変だと思いまして。本人は大変来たがっていたんですがねえ」
「いえいえ、おなかの赤ちゃんの方が大切ですもの」
ナタリアはそう言って、にこりと笑ってみせた。
「生まれてくる子の性別は、もうわかっていらっしゃいますの?」
「はい。どうやら、男の子らしいですよ」
ジェイドは機嫌よさそうに、笑顔の安売りをしていた。ナタリアが、そうでしたの、と微笑む。
「生まれたら教えて下さいましね。私もお会いしたいわ」
「ええ、喜んで。義兄上と一緒にお招きいたしますよ」
言いながら、赤い目がちらり、と固まるアッシュの方を見やった。
ナタリアとジェイドの会話に入り込めずに不機嫌そうに口をつぐんでいたが、彼はふいとそっぽを向いた。
「まだ義兄じゃない」
「アッシュ…」
呆れたような、おかしそうなナタリアの声に、彼はますます不機嫌そうに眉を寄せた。
「…体調は」
「はい?」
「…っ、あの馬鹿の体調はどうだと聞いている!」
ほとんどやけっぱちでアッシュが叫ぶ。ジェイドは意地悪くクスリと笑った。
「…気になりますか?」
「……ッ、知るか!」
「自分で聞いたくせに、変な人ですねえ」
「煩い! それでどうなんだ!?」
そんな態度の悪い人には教えませんよ、と危うくそんな言葉が口をついて出そうであったのを、ジェイドは危うく飲み込んだ。
「良好ですよ。良好すぎて、常にガイを神経性胃炎に追い込んでいますが」
「…そうか」
「…そうなんですの」
苦労人の青年に同情するような雰囲気が、ジェイドの目の前の王族二人から漂った。
「まあ、彼の場合好きで心配してるんですから、別に構わないんですが」
ジェイドのその言葉に、まあそれもそうだな、とアッシュが頷いた。
「それで、今回の訪問の目的はそれか?」
アッシュが話題を切り替えると、ああそうでした、とジェイドが懐からなにやら封筒のようなものを取り出す。
「今回は報告がもう一つありまして」
「ふん?」
アッシュがその封筒を開くと同時に、ジェイドは本日二つ目の爆弾を投下した。
「私たち結婚しました。といってもまあ、籍を入れただけなんですけど」
「ちょっと待て貴様ぁああああああ!」
「いやー、流石に子供できちゃったら責任取らざるを得ませんからねえ。もう少し先の予定だったんですけど、かなり繰り上げになってしまいました」
「意外と早かったんですのね。…ルークの本籍はキムラスカではなかったのですか?」
「いや、そうだったんですけど、彼、じゃなくて彼女がグランコクマに来るときに、ついでに籍もマルクトに移動させておいたので」
キムラスカがあっちのルークにも籍を用意していてくださって助かりましたよ、とジェイドは笑った。
「でなければ子供はうっかり私の私生児ってことになりかねませんでしたからねえ」
「…あの皇帝なら籍の一個や二個くらい平気で作るだろうが」
「まあ、そうでしょうね」
でも流石に私が産んだというのは怖いでしょう、と言われ、ナタリアとアッシュは沈黙した。
「…待て。手回しが良すぎないか」
ふと気付いたように、アッシュが呟く。ジェイドが笑みを深くした。
「貴様、まさか」
「そうですねえ、予定はなかったんですが。…まあ、予想できる展開ではありましたね」
ジェイドの言葉に、ぶつり、とアッシュの中で何かが切れた。
「テメェそこに直れ! この俺がじきじきに手を下してやる!」
そう言って剣を構えるアッシュを、ナタリアが鋭い口調でたしなめた。
「アッシュ、落ち着いてくださいませ! ルークを結婚して早々未亡人にする気ですの?!」
「…問題はそこなんですかねえ」
「あら、それじゃあ大佐は今アッシュに斬られても良いとおっしゃるの? 殺しはしなくても、うっかり手が滑って大怪我はなさるかもしれなくてよ?」
「ああ、それは困りますねえ」
「でしょう?」
自分の隣でのほほんと交わされる会話に、アッシュはすっかり殺気を削がれた。
剣を鞘にしまうと、ばかばかしいと言い捨てて、彼はファブレ家の豪奢な応接間を後にしていった。
「アッシュもきっと、内心喜んでいらっしゃいますのね。それで大佐、結婚式はいつなさるのですか?」
ジェイドは内心、そうには見えませんでしたけどねえ、と呟いて、笑顔で答えた。
「…それが、ルークが大変に面倒くさがるもので。まだ決まっていないんです」
「まあ! それじゃ、なさらないおつもりなんですの?」
「いえ。それは、陛下とアニスが意地でも決行するつもりらしいですから」
「あら、お二人はもう知っていらっしゃるんですのね」
私たちが最後でしたの、とどこか不満そうなナタリアに、ジェイドは苦笑してみせた。
「たまたまルークの定期診断の日に、アニスが来ていたんですよ。どうやらそこから陛下に伝わったらしくて」
「驚いておられたでしょう?」
「そうですねえ。『お前もうちょっと我慢強さを身につけたらどうだ』と、お説教されました」
「まあ」
くすくすとナタリアが笑った。彼女は幸せそうな笑顔が良く似合う。
それはアッシュと共にいることができるからだろうかと、ジェイドはぼんやりと思った。
「アニスには、『まさかあの大佐が出来ちゃった結婚するなんて〜!』と、仰天されましたよ」
「そうでしょうね。私だって、想像もできませんでしたもの」
くすりとナタリアが笑った。
「先に婚約したのは私たちでしたのに、追い抜かれてしまいましたわね」
「追い抜くつもりはまあ、無かったんですが」
「ふふ。大佐は本当に、ルークのことを大切に思っていらっしゃるんですわね」
ジェイドは唐突黙り込んだ。どうしたのかと訝しく思ったナタリアだが、その顔が僅かに赤いのを見て取ると、驚いたように目を見開いた。
それから彼女は、もう一度柔らかく微笑む。
「…ルークのこと、よろしくお願い申し上げますわ」
ジェイドが、ええ、と返事を返すまでには、しばらくの間があった。
ファブレ夫妻は視察に行っているために、当分は戻ってこないという話だったので、ジェイドは二人が帰ってくる予定の半月後に、再び出直すことにした。
次に会うときには兄弟としてですね、といえば、何とも嫌そうな顔をしたアッシュが、ナタリアに叱られていた。
不機嫌そうなアッシュと、その隣で微笑むナタリアに別れを告げ、バチカルを後にする。
結婚式を渋るルークをいかに説得するかというのを帰路の間に考えなければなるまい。
式をするのは別に構わない、けれどドレスは嫌だ――そう言い放った彼女に、なら私がドレスを着ましょうかといえば、ふざけるなと怒られて、しばらく口も聞いてもらえなかった。
何故そんなに怒ったのかはいまひとつわからない。こっちの男の矜持を気にしてくれるというならば、そもそも式典を嫌がらないでほしいものだ。
さて、どう説得したものかと、ジェイドは頭を悩ませる。けれどそれは、ずっと楽しい悩み事であると、同時に彼は感じていた。
大切な彼の命を、救えなかったということを、悩むよりはずっとずっと。
「…私もまだまだ青いですねえ」
呟きは潮風に溶けた。それでかまわないと、言われているみたいだとジェイドは思った。
グランコクマに向かう船は、白く白く、海原に跡を残す。
消えていくその細い導を見つめ、ジェイドは笑った。
自分を待つひとがいる場所に帰るのは、こんなにも嬉しいものだということを、その日ジェイドははじめて知った。
2006/5/2 ジェイドとアッシュとナタリア