星よ降りあのひとを照らせ
 ルークは最後に一度だけ、その花畑を振り返った。
 (多分本当は、最後に一度だけ来たかっただけなんだ)
 これも言い訳になるんだろうか。先ほどアニスに言われた言葉を思い出し、一人苦笑する。
 きっと彼女は「前を向け」と言いたかったのだ。過去を振り返るべきは今じゃないと。
 けれどそれは今しなければ、もう自分には時間がない。アニスはそれを知らないのだ。
 そしてそれを隠しているのは、ルーク自身。
 最後にきちんと、自分と向き合う時間がほしかったのかもしれない。

 光る花、石碑、あの中で自分は髪を切った。自分で自分に決別をした。
 そのつもりでいた。
 今になって、今だからこそ。前を見られなかった、周りを見られなかった頃のルーク自身を振り返りたいと思ったのかもしれない。
 自分が死んで生まれ変わった場所。自分で一度自分を殺した場所。
 だけど誰にもそんなことは言えやしないから、ルークはひとり、目を閉じる。

 (さよなら)

 次は前を向けるように。
 祈りながら、ルークは瞼を上げる。


 その夜、背中に酷い冷たさを覚えて、ルークは跳ね起きた。
 久しぶりにあの夢を見た。震えるからだが情けなくて、強引に目元の雫を拭う。
 それから気がついた。部屋にはまだ、ランプがついている。
 光源のほうへ視線をやれば、隣のベッドにいるはずのジェイドが本を読んでいた。
 紅い瞳がちらり、とこちらを見上げる。
「…起きたんですか」
「ああ。ジェイドはこんな時間まで、何してんだ?」
 大したことではありませんよ、そう言いながら彼は本を閉じた。その題名が見えてしまって、けれどルークはそれを見なかったことには出来なかった。
 寄せられた眉に気付いたのか、ジェイドは苦笑する。
「…ありがとうな、ジェイド」
 そう言った途端、ジェイドの表情が消える。何かまずいことを言ったかと思って謝れば、いえ、と酷く平坦な声が返された。
「…明日も早いから、早く寝た方がいいぜ」
 ベッドから脚を下ろしながら言うと、いぶかしむような声が問いかける。
「そういうあなたはどちらへ?」
「ちょっと水を貰ってくるよ」
 喉渇いちまって目が覚めたんだ、というと、そうですか、と納得したように頷き、ジェイドが立ち上がった。
「私もご一緒しても構いませんか?」
「ああ、いいけど」
 二人は眠っているミュウとガイを起こさないように、なるべく足音を消して部屋を出た。
 ひんやりとした夜気が廊下に満ちている。ふるり、とルークが身を震わせると、寒いのですか、とジェイドが優しく問いかけた。
「少しな。…ジェイドは?」
「いえ。このくらいでしたら、私は平気です」
 一度部屋に戻りますか、と訊いてきたジェイドに、ルークはかぶりを振った。部屋に戻って、うっかりガイたちを起こしてしまうのは嫌だった。
「どうせ水貰うだけだし」
 本当は水を貰う気などさらさらなかったが、ジェイドがついてきてしまった以上、食堂には向かわなければならない。確か夜間でも利用できる水とグラスのサービスがあったなとルークは思いをめぐらす。
 夜の廊下は酷く静かだった。明り取りと装飾を兼ねた窓から、静かに月光が降り注ぐ。
 そのおかげで、昼のようにとまでは行かないが、足元を見るのには不自由しなかった。
 二人分の足音だけが、静かに響く。
 ジェイドの顔を見る気にはなれず、目の前の床だけを見つめて歩いていると、いつの間にか食堂まで到達していた。
 水のグラスを二人分取り、水差しから水を注いで渡せば、ありがとうございます、と素直に礼が帰ってくる。
「…何です」
 ジェイドが素直に礼を言うとは思わなかったのだ、といえば、彼は一体どういう反応を返すだろう。
 けれどそれはお見通しだったらしい。私だって素直に礼ぐらい言いますよあなたと違って、と嫌味つきで言われて、それでやっとルークは、不思議なことにほっとした。
「俺だって礼ぐらいきちんと言うっつーの」
 少し口を尖らせながら言えば、おやそれは失礼、と全然失礼と思っていないであろう返答が寄越される。
 彼は変わらないなとすこし嬉しくなりながら、あと何回自分はこんな他愛無い会話を交わせるのだろうとふと思うと、どうしようもない切なさがこみ上げてやるせなくなり、ルークは表情を読まれぬように俯いてグラスの水を見つめた。たとえ暗い場所でも、夜目の効くジェイドであれば、簡単にルークの表情など読み取られてしまうに違いない。
 そのまま自然に、その冷たい縁に口をつける。思っていたより自分の身体は水分を欲していたらしく、咽喉を通り過ぎていく潤いが心地よかった。
 ふと、ルークは視線を感じて顔を上げる。ジェイドの探るような紅い瞳と目がかち合って、居心地が悪くなる。
「…何だ?」
「いえ」
 ふいと視線は逸らされ、ルークは落ち着かない気持ちになった。けれど何を言っていいのかもわからない。
 夜の沈黙は苦手だ、とルークは思った。
 真っ暗な中に、思考さえも持っていかれそうになる。
「ルーク」
 ジェイドが名を呼んだ。何だ、と答える。
「…今から私の言うことは、聞かなかったことにしてください」
「…?」
 ルークはきょとんと、目の前の男を見上げた。ルークは夜目の効く方ではないから、その表情まではわからない。
 男は、男らしからぬ口調で、懇願するように言った。

「私にも、仲間達にも。あなたはまだ必要です。…あなたと言う存在そのものは、まだ、必要とされているんだ」

 ルークは大きく、翠玉を見開く。

「だから、勝手に消えないでください」

 酷い、と、ルークは思った。飲んだはずの水が、乾いていく。こんなの酷い。
 それでもどうにか苦労して引きつった笑いを作って、ルークは言った。
「…心配しなくても勝手に消えたりしねーよ。…ヴァン師匠を、止めるまでは」
「…ルーク」
「大丈夫。…大丈夫。心残りはないって言ったら、嘘になるけど。…いつだって覚悟は」
「ルーク!」
 遮るように、ジェイドが叫んだ。ルークはかぶりをふる。
「…時間がないんだろ? 諦めたっていいんだ、ジェイド」
「あなたがそれを言うんですか」
 非難するような、それでいて悲鳴のようなジェイドの声。こんなに取り乱したこいつを見るのは初めてだなあ、と他人事のようにルークは思った。
「俺だから言うんだ。…なあ、ジェイド。これ以上お前が絶望することないよ」
 ジェイドがあからさまに息を詰めた。やっぱり、と言う思いが、二重の意味を伴ってルークに圧し掛かる。
 調べれば調べるほど、彼の表情は暗くなっていく。ルークはそれに気付いてしまった以上、見過ごすことは出来そうもない。
「ジェイドの気持ちは嬉しいけど。…俺はこれでも、結構幸せだと思える」
 だからもういいよ、ルークはそういって、何とか笑顔を作った。
 その顔を見て、ジェイドの紅い瞳が一瞬、痛むような色を宿したのは、果たしてルークの気のせいだろうか。
「…私は」
 ジェイドが、酷く疲れたような、苛立ったような声を出した。

「私は、あなたのそういうところが嫌いだ」


 先に失礼します、と言って食堂から出て行ったジェイドの後姿を、ルークは見送った。
 完全にその足音が聞こえなくなってから、ずるずるとその場にへたり込む。
「…情けねえ」
 目の前が滲んで、呼吸が苦しくて、声を上げることも出来そうにない。
 いっそ泣いてしまいたかった。けれどそれだけは出来なくて、ルークは必死に上を向く。
 (怒らせちまった、な)
 けれど仕方ない。こうでもしなければ、あの男はまだ、ルークを救う方法を探して、そしてまた深く絶望させられていくのだろうから。
 これ以上彼が痛みを知る必要はないのだ、これ以上彼が苦しむ必要はないのだ。いずれそう遠くないうちに消えてしまう自分などのために。
 (これでいいんだ)
 ルークは無理矢理そう思い込んで、涙を拭った。

 ああ、どうか、優しくて人一倍不器用な彼が、幸せになれたならいいのに。
 冷たい床の上で、ルークは独り願う。

 静かな夜は幾つもの涙を飲み込んで、ただ密かにそこにあった。




2006/3/21 ジェイルク
BGM:ダイニングチキン(鬼束ちひろ)










 真っ直ぐ部屋に帰る気にはとてもなれずに、ジェイドは宿を抜け出す。
 この時間ではさすがに酒場も開いていないだろうが、人通りは全くないわけでもない。特にこんな、月の明るい夜には。
 けれど誰にも会いたくなかった。

 (悟られて、いたのか)

 不覚だった。不覚だったとしか言いようがない。
 あの子供はそういうところばかり敏くて困る。
 おそらくあれは、自分を見かねての発言だったのだろうとも、少し時間を置いて考えれば簡単にわかった。

 おそらく、誰よりもそれを認めたくないのは、自分だ。そして、誰よりもそれを知っているのもまた、自分。
 自分の知識をここまで疎ましく思ったのはおそらく初めてだろう。
 あの子供を助ける方法は、おそらく――無い。
 それでもあがくのは無駄なのだろうか。あがきたいと願うのは、無駄なことなのだろうか。
 何より当の子供自身が、それを拒否してしまっているというのに。
 自問して、自分の中では疾うに答えが出ていたことに気付く。

 自分は、あの子供を諦められない。諦めることができない。

 気付いてしまえば早かった。子供が言ったように、時間は足りない。
 けれど、まだ、諦めるにはまだ早いのではないか――そう思うのだ。
 全く根拠のない、心の中のどこかが、自分に囁く。
 まだだ。まだ、何かがあるはず。

「私は諦めません、ルーク。…これでいて結構、諦めの悪い大人なものですから」

 静寂なる夜だけが、その言葉を聞いていた。

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