残響のイノセンス
 ルークは呆然としながら、自分の手首を捕らえた男の姿を見つめていた。
 男は薄い笑いを浮かべながら、さらりとした髪を揺らす。
 どうして、この男が、こんな場所にいるのだ。ルークの翠の瞳に、満足そうな男の姿が映る。
「やっと、捕まえました」
 男の赤い瞳が細められ、ルークははっと我に返った。
 手首の拘束を外そうと腕を引くと、逆に引き寄せられてバランスを崩す。
 そのまま男の胸に抱えられるようなかたちになる。
 男の性格から考えると、こんな暴挙に出ることはありえないことだった。誰もいない、二人きりの場所ですらこんなことをされた経験はない。
 ましてや、ここはケセドニアの市場の真ん中で、人通りも多い。
 自分達が人目を引いていることをルークは正しく理解していた。特にここ最近はずっと隠れてばかりだったから、他人の視線が気になって仕方ない。
「ジェイド、離せ」
 目立ってるぞ俺たち、そう付け加えれば、仕方ないとでも言いたげな態度で、それでもジェイドは身体を離した。
 拘束されたままの手首を除いて。
「…おい」
 しかしジェイドはにっこり笑って、なんでしょう、と返した。
 はぐらかすつもりだこの野郎、心の中で毒づいて、ルークはジェイドの蒼い手袋につかまれたままの手首を上げた。
「はなせっつってんだろ」
 軽く睨んでやると、ジェイドは軽く首をかしげた。
「嫌だ、と言ってるんですが」
「言ってねえじゃねえか」
「今言いました」
「…」
 やっぱり相変わらずだこのおっさん、二年経っても変化ナシかよ、と呟けば、そりゃあなたもでしょう、と言い返される。
 ルークは拗ねたように唇を尖らせた。
「そりゃあな、そりゃあオリジナルのアッシュの方は何故か背も伸びて還っただろうけどよ。仕方ねえだろ音素が足りなかったんだから。…たぶん」
「私は別に身長の話、とは言っていませんが?」
 ルークはうっと呻って黙り込んだ。その様子を見ながらジェイドが、やはり相変わらずだ、と笑んでいたことも知らずに。
  「まあ、こんなところで立ち話も何ですし、宿にでも行きませんか?」
 お前がそれを言うのかと、ルークは思った。


 結局ルークはジェイドに売られていく子牛よろしくひきずられ、彼が仕事で滞在しているという宿の部屋に連れ込まれた。
 先に部屋の中に通され、後ろ手にジェイドががちゃんと錠を下ろしたのを聞きとめて、ルークは顔を引きつらせる。
 顔は笑っているが、その目が全く笑っていない。無意識に二三歩後ずさると、それよりさらに大股でジェイドがルークに近寄った。
「…この丸一ヶ月、あれだけの追跡からよくもまあ逃げおおせたものだ。褒めて差し上げたいくらいですよ」
 いきなり嫌味からはじまった。予測できた事態ではあったが、実際に体験するとここまで痛いとは思わなかった。視線が。
「…っていうか俺も、あんなに追っかけられるとは思わなかったよ」
 呟いた瞬間、絶対零度の視線を向けられ、ルークは鳥肌を立てる。
 ジェイドは深く深くため息をついた。
「…あの後、どれだけ大変だったか、あなたは知らないでしょう。ティアはずっと放心しているしガイは取り乱して暴れる。事態の収拾に一体何日かかったと思っているんです」
 あなたがグランコクマで目撃されたと知らされたときには、本気で殴ってさしあげたいと思いましたよ、とジェイドは続けた。
「またあなたが消えてしまったのかと、どれほど皆が脅えていたか――あなたは知らないのでしょう」
 ルークは、ごめん、と呟いた。
「日記一つ残して消えるなんて、あなたは一体いくつの子供ですか。ああそうでしたね、あなたはそういえばまだ十歳でしたか。子供でした。学習能力を第七音譜帯にでも置き忘れてきましたか?」
 ジェイドの容赦ない追撃に、ルークはすっかり項垂れた。
「…ごめんなさい」
「後悔するなら家出などしなければいい」
 止めの一言に、ルークは黙り込んだ。ジェイドはこめかみを押さえた。
「何故家出をしようなんて思ったんです?」
 聞かれれば、ルークは俯き、小さな声でこう返した。
「…俺は、やっぱりバチカルにいるべきじゃないと思ったから。俺がいると話がややこしくなるだけだ」
「あなたはまだそんなことを…、と、ナタリア辺りが聞いたら言いそうですね」
 ルークは違う、とかぶりをふった。どう違うんですか、とジェイドが言い返す。
「そんなことなんかじゃねーよ。俺にとって、本当に居たい場所はあそこじゃないから」
「ほう?」
「でもこんなことアッシュに言ったら、間違いなくキレられて終わるだろうし。だからって父上と母上に言っても、納得してくれるかどうか」
「だから家出をしたと」
 頷いたルークに、ジェイドはもう一度ため息をついた。ルークの肩がぴくりと震える。
「相変わらず馬鹿ですねあなたは」
 ため息交じりにジェイドがそう言うと、うっせ、とルークはそっぽを向いた。
「第一、他にどうしろってんだよ」
「あなたの頭で考えて無理なら、周りに相談すればいいでしょう。何のためにガイをそちらに残したと思っているんです」
 ルークは黙りこくった。そこまで頭がまわらなかったらしい。
 さすがというか何と言うか、ジェイドは呆れた。
「それにグランコクマに来たのなら、私なり陛下なりを頼るという手段もあったでしょう。何故誰にも何も言わずに姿を消したんです」
 ルークは、少し困ったような顔になった。
「…頼ろうとは思ったんだ。ジェイドを」
 ジェイドは心の中で少し驚きながら先を促した。ルークはやや蒼褪めた顔で続ける。
「でも、俺がいなくなってからのガイの行動が、予想以上に早くて…」
「…」
「…あんな鬼気迫ったガイを見るのはほとんど初めてだったから、怖くなって逃げた」
 そう言えば、グランコクマにルークがいなくなったという報告をしにきたのはガイだった、とジェイドは思い出した。
 あの時はジェイドはバチカルにいたので、ちょうど入れ違いになったのだったか。
「…あなた、最初に見つけたのが私でよかったですね」
 ガイだったら間違いなくすぐさま拉致監禁でしたよ、とはジェイドは言わずにおいた。
 けれどそのニュアンスは通じたのだろう、ほんとだよ、とルークは苦笑した。
「それはそうとして、ルーク。自分がどれだけまわりに残酷なことをしたかは、もう重々承知の上ですよね?」
 にっこり、ジェイドが笑顔で言ってやれば、う、とルークは引きつった。
「…そういう悪い子には、お仕置きですよ」
「ご、ごめんなさいっ」
「謝るくらいなら最初からしないでください。まあこれでやっと私も任務から解放されますが」
 ジェイドの言葉に、ルークはえ、と目を丸くした。
「ジェイド、俺を探してたのか?」
「ええ、まあ。陛下の勅令で」
 ルークはすまなさそうに、翠の瞳でジェイドを見上げた。
「…ごめん。ジェイドはマルクトの人間なのに、こんなことに巻き込んじまって」
「いえ。でもあなたはうちの陛下のおもちゃになることは覚悟しておいてくださいね」
「…それは嫌だ」
 その言葉に、あなたが拒否できると思ってるんですか、とジェイドが呆れ混じりに返せば、だよなあ、とルークは嫌そうな顔でぼやいた。

「…でも、ありがとう、ジェイド。おれのことを探してくれて」

 いきなり、ルークの声のトーンが変わった。
 ジェイドは少しそれを訝しく思いながら、別に構いませんよ、と返す。
「俺を最初に見つけてくれるのはジェイドかな、って何となく思ってたから」
「…ルーク」
「ガイと、どっちの方が早いかなって。でも一番はジェイドだった」
 それが嬉しいんだ、とルークは微笑む。
「…甘ったれるのもいい加減にしなさい」
「うん、ごめん」
「どれだけ心配させれば気が済むんですか」
「…心配、してくれたのか」
「…当たり前、でしょう。何を嬉しそうな顔してるんですかあなたは」
「だって正直、ジェイドがおれの心配をしてくれるとは思わなかったし」
 ジェイドは三度ため息をついた。このこどもにはかなわない。
「よほどお仕置きしてほしいらしいですね。仕方ありません」
 言うなり、ジェイドはルークの肩をつかんだ。痛いほどに手が食い込み、ルークは顔をゆがめる。
「痛いって、ジェイド」
「我慢しなさい」
 ジェイドは背後にあったベッドにルークを突き倒すと、その衣服に手をかけた。さすがに焦ってルークが制止しようとすると、その唇に噛み付く。
 上唇を舐め、下唇を甘噛みして、舌がその咥内に侵入した。水音が宿の狭い部屋に響く。
 ジェイドがルークを開放する頃には、その唇は飲みきれなかった唾液でべたべたになっていた。
「じぇ、いど」
 肩で大きく息をするルークの身体にに、ジェイドは頭を預けた。
 いつの間にかはだけられた胸の上に、さらりと冷たい髪の感触が広がり、ルークは息を詰める。
 そのまま動かなくなってしまったジェイドを、ルークは訝しげな視線で見つめた。
「…ジェイド?」
 ジェイドはルークの胸の上に耳を当てて、静かにしてくださいね、と無愛想に言った。
 それにむっとしたルークが、重いって、と苦情を言えば、もっと酷いことをしますよと遠回しに告げられる。
 ルークは白旗を上げることにした。こうなったらもうどうしようもない。
 困惑しながらも、ルークは目を閉じた。やることがない以上、こうなったらふて寝するしかない。
 ルークがだんだん穏やかに呼吸を戻していくと、ジェイドがふと呟くように言った。
「…あなたは、自分が周りからどれだけ必要とされているか、もっときちんと知った方がいい」
 疲れたような声音に、ルークはふと目を開ける。
「ジェイド」
「私の傍にいなさい。ガイにはもう、任せておけない」
「…へ?」
 話がとんでもない方に跳躍して、ルークは身体を起こそうとした。しかし案外強くジェイドはルークをベッドに繋ぎとめていて、それは小さな身じろぎにしかならない。
 ジェイドはルークの胸から顔を起こすと、赤い瞳で真っ直ぐにルークを見すえた。
「この私が直々に再教育してあげようといっているんです」
 ルークは呆然としてその赤い瞳を見ていた。
「あなたが居たい場所は、バチカルではないんでしょう?」
「あ、ああ」
「でも、その場所には真っ直ぐには行けなかった。どうしてです」
 それは、と言いかけて、ルークは口をつぐんだ。翠の瞳が揺れる。
「それがどこかは知りませんが、あなたがそこに行けるまでに、滞在する場所が必要でしょう。私はそれを提供することができる」
 悪い話ではないと思いますが、とジェイドが言った。ほとんど懇願するような口調だったが、生憎混乱しているルークにそれは気付かれなかった。
「えと、…いいのか」
 遠慮がちにルークが言えば、私がいいと言っているんですからいいんです、とどこか苛立ったような口調でジェイドが返した。
 ルークはそれを聞いて、やっと力を抜く。
「…ありがとう、ジェイド」

 その言葉を聞いて、ジェイドが密かに安堵の息を漏らしたことなど、ルークは知らない。




2006/3/18 ジェイルク
BGM:眩暈(鬼束ちひろ)(ありがとうございました!)











 ジェイドはルークの乱された着衣を直しながら、ふと疑問を口にした。
「ところで、あなたが行きたかった場所って、どこなんです?」
 ルークは一瞬ぴくりと震えて、それからふいと顔を逸らした。
「…もう行った。一番最初に」
「は?」
「だからっ! …なんでもねえよッ」
 俺はもう寝る! 彼はそう言いながらジェイドの手を振り払い、布団の中に潜ろうとした。
 それは私のベッドなんですけどねえ、とジェイドはいいかけて、ふと楽しそうに口の端を持ち上げる。
「ルーク?」
「…何だよ」
 不機嫌そうな翠の瞳が、ジェイドに向けられる。
「ケセドニアは砂だらけですから、寝るなら先に風呂に入ってくださいね。…ああ、どうせなら一緒に入りますか?」
 ルークは翠の瞳を大きく見開き、それから手元にあった枕をジェイドのほうに投げつけた。
 その攻撃を予測していたジェイドが軽くそれを受け止めると、耳まで真っ赤に染めたルークが風呂場のほうに向かって走っていた。
「ジェイドのバカ!」
 やっぱりお前頼らなくて正解だった、と言い捨て、ルークの姿が扉の向こうに消える。
 ジェイドは珍しく声を立てて笑いながら、その後姿を見送った。

「なるほど。全く、わかりやすくて助かりますよ」

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