花 の 器 と 翠 の 小 鳥

深淵の扉



 次の朝、ガイは嫌な予感と共に目が覚めた。
 本当ならば昨日は無理矢理にでも夜遅くまでルークの部屋にいるつもりだったのに、夕食後に凄まじい眠気に襲われて叶わなかったのだ。
 ジェイドがルークに向ける感情の正体をガイは知っている。だから、あの二人を一緒にしておくのは危険だと本能が知らせていた。
 ガイは苛々しながら身支度を手早く済ませ、食堂に向かった。既にティアとジェイドの二人がその場にはいたが、ルークの姿はそこには無かった。
「ルークなら着替えの途中ですよ」
 笑い含みに言われ、ガイは気まずげに笑って、ジェイドに挨拶をした。
「おはよう、旦那、ティア。…俺、そんなに態度に出てたか?」
「そうですねえ。いかにあなたがルークしか見えていないか、良くわかりますよ」
 ガイは苦笑した。自覚があるので、反論できないのだ。
「まったく、そういうところはいつまでたっても変わらないわね」
 ティアにも呆れたように言われてしまい、ガイは曖昧に笑うしか出来ない。
「アニスは?」
「ここにいるよ〜」
 後ろから声をかけられ、ガイは慌てて振り返った。にやにや笑いを浮かべたアニスが、いつの間にか後ろに立っている。
「おはよう、アニス」
 若干引きつった表情で、それでも彼は挨拶をした。おはよ、と言って、アニスがガイの横をすり抜ける。
 アッシュとナタリアは、聞くだけ野暮というものだろう。ガイはそう判断して、四人がけのテーブルの空いた席に座った。
 その頃になってようやくルークが現れる。ミュウを頭に乗せたままで、彼女、はしばらくきょろきょろと辺りを見渡して、ガイたちの姿を認めるとにっこり笑った。
「おはよう、ルーク」
 嬉しそうに近づいてきたルークに、ガイも自然と微笑んだ。外見の変動はそれほどないからだろうか、男だった頃と大して変わらずに対応できそうだ。
 そうガイが思っていることも露知らず、ルークはいつもより随分離れた場所から、おはよ、と返事を寄越した。遠慮しなくてもいいのに、とガイは思ったが、うっかり昨日のように触れられて固まってしまえば、彼女はそれ以降自分に近寄らなくなるだろう、と考え直し、言わないことにしておいた。
 ルークはきょろ、と辺りを見廻し、アッシュとナタリアは? と聞いてきた。まだ部屋じゃないか、とガイが答えると、いかにも珍しい、といった表情に変わる。
「ここ数日式典やらなんやらで忙しかったからな。疲れてるんだろ」
「式典?」
 ルークが首をかしげて、そういえば言っていなかったと思い出す。
「四日前から、バチカルでアッシュの帰還記念式典が執り行われてたんだよ。そこの旦那以外は皆それに出席してたんだ」
 主役が抜けちまったから今はどうなってるかわからないけどな、と付け足すと、へえ、とルークが目を丸くする。
「そんな大事なもん、抜けて来て良かったのか?」
「構わないだろ。本人が良いっつってたし」
 自分のやりたかったことだけをやったら後はどうでもいいとばかりのアッシュの態度を思い出し、ガイの表情が苦々しいものになる。
 ルークはそれでも済まなさそうに、でも大切なことだろ、と言った。その様子に、ガイは呆れてため息をつく。
「あのな、ルーク。俺にとってはあいつの帰還式典なんて本気でどうだっていいし、お前が帰ってくるのを迎えるほうがその何倍も大切なんだよ。それに当のアッシュ自身がそれを放棄してる時点で、あいつにとってもどうでもいいってことが証明されてるだろ?」
 その場にナタリアがいれば、どうでもいいとは何ですか、などと猛烈に反論されそうな台詞だが、生憎彼女はまだ部屋から出てきていない。
「あの二人は遅くなりそうですから、先に朝食にしましょうか」
 さりげなくルークの隣をキープしながら、ジェイドがそう言った。ティアとアニスがそれに同意し、各々の席に座る。
 ガイはふと違和感を感じて、知らずの内に眉間に皺を寄せた。
 ルークは気付かずにジェイドに話しかけ、それにジェイドは柔らかな笑顔で――笑顔?
 ガイは思わずティアとアニスの方を見た。彼女たちもほぼ自分と同じような反応をしていることを確認し、顔を引きつらせる。
 ジェイドが本気で笑っている。
 彼は軍服に包まれた手で、ルークの赤い髪をいとおしげに撫でた。ルークはくすぐったそうな顔をして、それでもその手の動きを止めない。
 これではまるで、あれだ。ガイは今の情景を表現するのに最も的確と思われる言葉を頭の中で思い浮かべて、すぐさま打ち消そうと努力した。けれどそのイメージはなかなか離れてくれず、それどころかなおさら強くなるばかりだ。
 ジェイドは、ガイが二人の間に漂う空気について色々と悩んでいる間に、あっさりとその手を離してしまった。ルークの視線が名残惜しげに、ジェイドのそれと重なる。
 ガイは結局、その食事の間中ずっと、悶々と悩み続けることになったのであった。

 ルークがバチカルに帰還したとの報は、それほど多くの人に知れ渡ることにはならなかった。ルークのたっての願いで、街中ではその容姿を分厚いフードとマントで隠し、ファブレ家の門をくぐり屋敷の中に入ってやっと、その紅い髪を空気にさらした。
 公爵と、特に奥方の歓びは大変なものだった。
 言葉を尽くし、心を尽くした歓迎に、ルークはこれから自分が言わなければならないことを思うと、申し訳ないような気持ちになる。
 彼女の複雑な胸中も知らず、シュザンヌは涙に濡れた笑顔で言った。
「これからは、ずっとバチカルにいられるのですね?」
 ある意味肯定を期待されていたその言葉に、しかしルークはかぶりを振った。
「いや。……俺は、この家を出ます」
 前日にルークの決意を知っていた面々はともかく、初耳だったガイと、公爵夫妻の驚きは尋常ではなかった。
 けれど、そうだな、お前にとってはそれが良いかも知れん、という公爵がぽつりと呟く。
 バチカルにいても話はややこしくなるし、口さがない貴族やその他の視線もある。レプリカを嫌う向きもそう少なくはない。
 自分から針の筵に好んで座る理由はないだろう、という判断を彼は下した。
「しかし、お前はこれからどうするのだ?」
 それを聞かれるのも当然のことではあったが、ルークはしかし正直に答えたものか一瞬悩んだ。
「マルクトに。…ジェイドのところに、厄介になることになってる」
 は? 何それ? というのが、その場にいた物が共通して持った感想だっただろう。
 突然に割って入ったマルクトの軍人に、怪訝そうな視線が多数向けられたのも無理はない。
 ジェイドはいつもの微笑でもって、その疑問に答えた。
「ルークはレプリカのために自分のできることをしたいといったので、ならばまずフォミクリーの発案者である私の元で学んではどうかと誘ったのです」
 私ならば彼の望む知識を与えることの出来る環境にいますから、と淡々と彼は説明した。
「あれから二年経ったとはいえ、レプリカの置かれている環境はまだまだ良くない。差別の根はそう簡単には絶えないでしょうし、そのほかのことについても改善すべき点はたくさん残されています。だからこそ、英雄として名を馳せたルークの力は極めて有効な助けとなるでしょう」
 もっともらしいジェイドの言葉に、アッシュまでもが納得してしまいそうになる。
 黙り込んでしまったファブレ公爵を、ルークは不安そうに見つめた。
「…どうしても駄目、ですか」
 公爵は、ジェイドとルークを見比べ、それから深くため息をついた。
「止めても行くのだろう」
 お前はそういう子供だ、といわれ、ぱっとルークの表情が明るくなった。そのあまりのわかりやすさに、周囲はそろって苦笑を漏らす。
「ありがとうございます!」
 明るく微笑まれ、公爵はどこか諦めたような表情になった。公爵夫人は公爵夫人で、その代わりに帰ってきたくなったらいつだって帰っていらっしゃい、ここはあなたの家なのだから、と、寂しそうに微笑む。
 ルークはちくりと良心の呵責を覚えたが、それ以上に舞い上がってしまっていて喜びを隠しきれていない。
「私たちの子供を、頼む」
 いつかガイが言われたのとよく似た台詞を言われ、ジェイドは優雅に微笑んで見せた。
「ええ。安心してください」

 不機嫌そうなアッシュと、本気で祝福してくれているナタリアに見送られ、ルーク達はバチカルを発った。
 途中でティアとアニスをダアトに送り(彼女たちは神聖ローレライ教団で働いている)、後は一路グランコクマまで向かうアルビオールの中で、ルークはやけにむっつりとしているガイを気にしていた。
「…俺何かやった?」
「知りませんよ…と言いたいところですが、今回ばかりは私が原因のようなものですからねえ」
 苦笑気味に言われ、ルークはさらに首をかしげる。
「ジェイドが? 珍しいな。喧嘩でもしたのか?」
 そんなようなものでしょうかねえ、と曖昧に答えられて、ルークの頭の疑問符は増えるばかりだ。
「ルーク」
 件の青年に名を呼ばれ、ルークはきょとんとそちらの方を向いた。
「何だ?」
「お前、グランコクマに来るの決めたの、いつだ?」
「いつって、昨日の夜だけど」
 ガイは空色の瞳をジェイドに向けた。その顔つきはどことなく厳しいもので、ルークは少し怪訝に思った。
 ルークさん、とノエルに呼ばれ、ルークの興味がそちらに移る。ガイはそれをありがたく思った。偶然にしてはこのタイミングは、出来すぎている。
「ルークが女になったことを言わなかったのは、わざとだな?」
 形は疑問だが、ほとんど断定口調だ。ジェイドは肩をすくめる。
「さて? 忘れていただけかもしれませんよ」
 向こうも気づいていて何も言わなかっただけかもしれませんし、とジェイドが言うのに、しかしガイはさらに表情を険しくする。
「忘れていたってのは無いだろうし、外見はほとんど変わってないんだから有り得ないな。…何を考えてる」
「いえ、大体はファブレ公爵夫妻に言ったのと同じことが目的ですよ」
「何か一つ、まだ隠してるんじゃないのか?」
 ジェイドは笑みを深くした。
「隠している、といいますか。…別に私は彼を取って食おうって訳じゃないですけどねえ」
 嘘をつけ、とガイは思った。眼鏡の奥の紅い瞳からは相変わらず感情が読み取れず、それが彼を苛立たせる。
 けれどもう自分が何を言っても無駄だろうということも、同時に悟った。悟ってしまった。
 何よりルークが選んでしまったことだ。今更他の人間が意思を変えさせるわけにはいかないだろうし、それが出来る相手でもない。
「…ルークを泣かせたら、許さない」
 結局月並みな台詞しか出てこない自分を呪いながら、ガイは窓の外に視線を逃がす。
 目の前では、海に囲まれたグランコクマの街が、白く日の光に輝いていた。
「…さて。もうそれは、手遅れじゃないですか」
 呟くように返された言葉に含まれた自嘲の色には、一生気付きたくなどなかった。
 ガイは心の内で、苦い気持ちを吐き捨てる。それは同時に、彼の敗北宣言でもあった。

 ジェイドの家に案内されながら、ルークは疲れた、と呟いた。
 その理由がわかりすぎるほどわかってしまうジェイドはもう苦笑を零すしかない。
 お前何も女になって帰ってくるなんて、そんな面白いことしなくてもこっちには迎えてやったのに、と、どこぞの皇帝陛下がのたまったのがその原因だろう。
 彼が、ルークがジェイドの屋敷に留まると聞いたときの反応など、もう――あとでこっそり、ルークには聞こえないように耳打ちされた言葉を思い出し、ジェイドは胸に苦々しいものがこみ上げるのを感じた。
 しかも自分自身には痛い所があるだけにいっそうたちが悪い。嫌味の一つも返してやればよかったと、うっかり動揺してしまった自分に途轍もない青さを感じて、ジェイドはため息をついた。
   ガイと別れるときなどは、旦那になんかされたらいつだって逃げてきていいからな、とわざと聞こえよがしに言われた。ルークにはその意味は多分まともに伝わっていないのだろう、とジェイドは思ったが、それはきっと向こうもわかっている。
 けれど、今ルークの傍にいるのは確かにジェイドなのだ。その事実が、ピオニーやガイの嫌味や、自分の倫理感すらも跳ね除けて、どうしようもなくジェイドの心を浮き立せた。
 随分と毒されている。もう取り返しはつかないことに、多分本当はとっくの昔に気付いていた。
 ティアでもなく、ガイでもなく。オリジナルのアッシュすら捨てて、自分を選んだ。いや、選ばせた。らしくない自分が、何故か不思議に心地よい。
「それにしてもルーク。一つ質問なのですが」
「うん?」
 ルークが滞在できるように、一つ物置代わりになっていた部屋を片付けながら、ジェイドは薄く笑う。
「フォミクリーの施設を破壊したいというのは、本当はあなたの本心ではないのですか」
 ルークの手がわかりやすく止まった。ジェイドはじっと、その動かない白い手を見つめる。
「…突然だな」
「ずっと気になっていたもので」
 ルークが、はあ、と息をつく。辺りに舞う埃が、窓から入る光をきらきらと拡散させていた。
「…そうだな。そうかもしれない」
 たぶんそうなんだろうな、と、まるで他人事のようにルークは答えた。
 当然のことのようで、その実矛盾しているそれを、ジェイドは知っている気がした。
「レプリカは、哀しい。お前は本物じゃないって言われることは、何よりも辛い。俺が俺でいられないんだから。…本当は俺だって、アッシュの中に取り込まれちまう予定だったし、ひょっとしたら今の俺が死んだらそうなるのかもしれない」
 高々と積まれた本を、不器用な手つきで何とかまとめながら、ルークは続けた。ジェイドも止めていた手を動かしかける。
「だけど俺は俺が生まれたことを、否定なんかしたくない。俺は俺だし、アッシュはアッシュだ。俺はそれをあの旅で知ったけど、でも誰もがそれをきちんと知ることができるとは思えない。その機会がひょっとしたら来ないかもしれないんだ。もしかしたら俺やイオンみたいに、ただの身代わりとして作られちまって、一生その影に怯えなきゃならないかもしれない」
 だから俺は、皆にその機会をあげたいと思うのと同じ強さで、すべての研究を破壊したいんだろうと思う、とルークは呟く。
 ジェイドは黙ってそれを聞いている。分厚い本の背表紙にかけた手は、しかしその場所から動かなかった。
 けど、と、ルークは手を動かしながら続けた。
「でも俺は、それが無駄だってことも知ってる」
「…どうしてですか?」
 ジェイドの疑問に、それはお前が一番知ってるだろ、と、酷く穏やかな声が返される。それはひどく哀しい笑顔で、ジェイドはずきりと何かが痛むのを感じた。
「現れちまったものはもう消せない。一度見たものは無かったことにはできない」
 それは自らの背負う罪と一緒だ。自らの心と同質のものだ。確かにジェイドはそれを良く知っている。
「いくら隠したって、またジェイドみたいに賢いやつが生まれて、同じようにそれを発見しないとは限らない。第七音素が減って同じ研究は出来なくなるかもしれないけど、さらに抜け道を見つけるかもしれない」
 どさり、とまとめた本を重ねて、ルークは机の上の埃を払う。うっわすごい積もってるな、とほとんど呆れたように、それでいてどこか感嘆したように言われた。
 ルークはふと本から視線を上げて、そして驚いたように目を丸くする。
「…ジェイド、何か嬉しそうじゃないか?」
 ルークの言葉に、ジェイドはふっと目元を和ませた。彼にしては珍しい、本気の優しい表情に、ルークは少し戸惑う。
「ジェイド?」
「…ええ。嬉しいんです」
 ああ、別にあなたが女になったことじゃないですよ、と付け足され、ルークは当たり前だとぶすくれた。
「あなたがあなたとして戻ってきてくれたことが、嬉しいんです」
 そのとき、ルークははじめて、ジェイドの本当の笑顔を見たように思った。
 言葉は自然にルークの唇からこぼれ落ちる。
「俺、レプリカでよかったと思うことが一つだけあるよ」
 ジェイドは、何ですか、と穏やかな声で聞き返す。ルークは照れくさそうに微笑む。
「俺がアッシュのレプリカじゃなきゃ、きっとジェイドは俺に会うことがなかっただろうから」
「…そうですかねえ」
「そうだよ。だって俺が俺なのは、俺が俺の記憶を持ってるからだ。俺自身の心を、確かにずっと覚えてるからだ」
 それがルークが、第七音譜帯の中で、アッシュに取り込まれかけながら出した結論だった。それ故にルークは、アッシュから自分の記憶を奪い返したのだ。
「俺の記憶を持ってるアッシュは俺じゃない。だけど、それはもうアッシュでもない。…俺はそう思ったから、還ってきた、還れた」
 自分の胸に手のひらを当てて、ルークは祈るように呟く。
 だからたとえ身体が変わってしまったって、俺は俺でいられる。本当に小さなその音を、ジェイドは聞き逃さなかった。
 私はルークに救われている、とジェイドは思った。ルークが還ってきて、本当に、泣きたいほど。
 ジェイドは結局ずっと止まったままだった腕を、ルークの方に伸ばした。
「…ジェ、ジェイド?」
 突然自分の身体を抱きしめてきたジェイドに、ルークは慌てて、怪訝そうな顔をした。
 少しこのままでいさせてください。らしくないことを告げるその声が僅かに震えていることに、ルークは気がついた。
 腕の中に閉じ込められながら、ルークはジェイドの低い体温を感じた。その背中におずおずと腕を伸ばすと、こめられた力が強くなる。
「なあ、ジェイド。…ここには俺と、ジェイドしかいないよ」
 小さな子供をあやすように、優しくその背中を撫でる。声を上げたければ上げればいい。そう続けると、ジェイドは、誰がです、といつもの口調で返してくる。
 その声がやがて、低い嗚咽に変わっていくのを、ルークはじっと聞いていた。
 長く、ルークの人生よりずっとずっと長く続いている痛みが、柔らかく溶け出していく。
 それは春の雪解けよりも、もっと優しい温度をしていると、ジェイドは思った。

 私はあなたに救われている。彼はもう一度、心の中で呟いた。




2006/3/12 ジェイドとルーク

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